柴草要の生涯
二・四(新興教育)事件犠牲者
長野県遠山茂治
芝草要は、一九〇三(明36)年四月二十二日、下高井郡穂波村佐野(現山之内町)四四番地、山本豊吉・しうの三男として生まれ、六歳の時、すぐ近くの芝草広吉・つねの養子になった。
下高井農商学校(現中野実業高校)を卒業後、県実業補習学校教員養成所に学び、農業化学の教員免許を取得して、一九二五(大14)年、諏訪郡永明実業補習学校教員として三一(昭6)年まで六年間在籍しました。
それは世界恐慌が日本にも波及し、不況がさらにひどくなった時期でした。
この間の一九二八(昭3)年二月、普通選挙法による初の衆議院選挙が行われ、作家藤森成吉が労農党候補として長野県三区から立候補しましたが、柴草はその演説を聞いています。
また当時『空想から科学』なども読んでいました。
一九三〇(昭5)年六月末、柴草は河村卓の勧めで社会科学研究会に参加し、同年八月、給料強制寄付反対運動にも加わっています。
三一(昭6)年三月末、松本市・明倫堂書店で『新興教育』を購入、積極的に社会の動向に関心を寄せていましたが、その学年末、給料強制寄付反対闘争を理由に諏訪郡南部の富士見実科中学校への強制配転となりました。
以後、彼はこの年八月の新興教育講習会に参加し、十一月と翌三二年二月には新興教育研究所を訪ねており、その翌日、日本教育労働者組合長野支部結成大会に参加して書記局常任委員となり、出版責任者として書記局ニュース発行にかかわり、新興教育機関誌『信濃教育』を二号まで発行しました。
三二年の四月十五日、柴草要は矢島豊子と結婚。
同年六月五日、河村とともに教労(略称)全国代表者会議に参加しました。
しかし、翌三三年二月六日早朝、柴草要は、治安維持法違反として突然検挙されました。
以上は柴草要の活動家としての足跡ですが、彼は教師としても大変熱心な教師という評価を受けていました。
「学友林の開墾を先頭に立ってやり、肥桶をかつぐのが上手だった」など多くの思い出を生徒に残しています。
また教え子の一人五味保夫氏は、「農村問題、新しい農業経営等について非常に熱心に講義をされ、農地の基盤整備と拡張等、現在実施している農業構造改善事業が、すでにその当時先生の頭の中には構想されていたと思い、本当に驚き入ります」と述べています。
教育に熱心であり、生徒たちにも尊敬されていた柴草要を、彼が社会に目を向け、かくあらねばならないという彼の思想ゆえに、権力は国家体制維持のため、見せしめという意味もあって、その職業を奪い、人生を否定したのです。
柴草は、上諏訪警察署から長野警察署に移され、長野地方裁判所で懲役三年六ヵ月の判決を言い渡されましたが控訴。
結局二年六ヵ月の実刑判決を受けて東京小菅刑務所に移され服役。
三年余の刑を終えて、一九三六(昭11)年四月出獄しました。
北信濃新聞(飯山市)に『飯山地名考』を執筆していた蔵地巌氏によると、この年の九月、柴草に深い同情を寄せていた神奈川県庁にいた小林朴人氏の世話で、鎌倉の失業者更生訓練指導員として赴任し、一家は鎌倉に住み、三年ほどこの仕事につきました。
その後彼の能力が見込まれ、東京芝浦電気マツダ機械工養成所の教官になりますが、五年ほど過ぎた一九四四(昭19)年十一月十九日、その生涯を閉じました。
柴草要は、いま郷里佐野の曹洞宗興隆寺本堂すぐ北の墓に静かに眠っています。
戦後生きて教職についたら、長野県教育に少なからぬ足跡を残したことだろうと惜しまれてなりません。(長野県「不屈」№三三七号より要約)
2009年4月15日
不屈(毎月15日発行)№418