おかしな式辞
毎年八月十五日の終戦記念日には、東京の武道館で政府主催の戦没者追悼式が行われ、各界の人々が式辞を述べるが、以前から「おかしいなあ」と思っていたことがある。それは「今日の平和と繁栄は、戦没者の方々の尊い犠牲のおかげである。」と云う意味の式辞がよくあることです。
今年も天皇は
「さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。」
と、まるで他人事のような云い方で、侵略戦争への反省や、戦没者と国民への謝罪の言葉は一言もない。
小泉総理に至ってはもっとひどい。
「今日の平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とした方々の尊い犠牲と、戦後の国民のたゆまぬ努力の上に築かれています。」
と毎年くり返す言葉が述べられた。
「戦没者のおかげ」だけを云うと、国民が疑問に思うのを恐れて、そこへ「戦後国民の努力」をつけ加えて、国民の疑問を和らげようと言う小細工をしたのである。
このように追悼式全体が太平洋戦争正当化の論理で貫かれている。ここに誤りの根源がある。
あの戦争がもし外国からの侵略軍に対して、国土を防衛するための戦争であるなら、この言葉は当てはまる。
しかし、こちらから侵略に行って(負けて)死んだのだから、「戦没者のおかげで今日の平和と繁栄がある。」などとは云えない筈である。
それとも「あの戦争がなかったら今日の平和と繁栄はない」とでも云うのだろうか。
とんでもないことである。
一寸立場を変えてみよう。昔、蒙古(今のモンゴル)が攻めて来た元寇の時、折からの台風で蒙古の軍勢は殆ど海に沈んだ。
それをモンゴルの総理が
「今日のモンゴルの平和と繁栄は、あの日本との戦争で命を落とした方々の尊い犠牲の上に築かれています。」
と云って侵略者をほめたたえたら、我々日本人は変に思うだろうし、モンゴルの国民も理解できないのではないか。
「よその国を侵略して死んだ人のおかげで、今日の平和と繁栄がある」などと云うウソに乗せられてはならない。
二千数百年程昔の詩人も唱った。
〝彼らは蛇のようにおのが舌を鋭くし、その唇の下にはまむしの毒がある〟
戦没者の方々に本当に応える道は、あの戦争が間違った侵略戦争であったことを率直に認めて反省し、戦没者の方々と国民に心から謝罪すると共に、二度と誤りをくり返さないために、憲法九条を守ることを誓うことではないか。 和歌山西支部 (H・H)
(絵手紙K・Y)