・・・・昭和天皇と日本製原爆開発計画・・・・・
山崎 元 (元国立国会図書館司書・同盟東京都本部長)
「治安維持法と現代」2004年春季号から
近衛和平提案の却下
半世紀前の第二次大戦で犠牲となった全世界の死没者は五千万人以上と数えられ、侵略加害国日本でも三百十万人もの尊いいのちが失われた。その三百十万人のうち非戦闘員の一般市民の犠牲は八十万人に達し、その大部分が戦争最後の年一九四五年に集中的に発生している。相次ぐ玉砕や敗走で戦場に消えた兵士の数を加えれば、終戦まで八カ月のその年だけで、日本人犠牲者は優に百万人を越えている。中国大陸や南方各地でもこの年の犠牲者は莫大なものであり、戦勝国の米軍もフィリピン屋硫黄島、沖縄攻略作戦で約五万人戦死している。
歴史的に周知のように、一九四五年二月十四日重臣近衛文麿は当時の天皇裕仁に「上奏文」を提出した。
「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。」
「敗戦は我が国体の瑕瑾たるべきも、米英の与論は今日までの所、国体の変革まで進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随って敗戦だけならば国体上はさまで憂ふる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂ふべきは敗戦よりも敗戦に伴ふて起こることあるべき共産革命に御座候。」
「戦局の前途に付き何等か一縷でも打開の望みありと言うならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存じ、随って国体護持の立場よりすれば、速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕り候。」
「戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来今日の事態にまで時局を推進し来たりし軍部内のかの一味の存在なりと存候、彼等は已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。」
三千字を越す「近衛上奏文の一説。この時期六人の重臣と牧野伸顕とが個別に天皇に呼ばれて戦局の行方についての「下問」にそれぞれ答えているが、あらかじめ文章を用意して、「上奏」したのは、近衛文麿だけだった。
この「上奏文」を基調にいくつかの質疑応答が交わされた末に、結局天皇は「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思ウ」と言って近衛の即時和平提案を却下してしまった。
この時なお戦争継続にこだわった天皇の判断の基礎には、その五日前の二月九日、梅津陸軍参謀総長から聴取した当時の大本営の作戦計画「本土決戦、日本列島の中央の山岳地帯に軍を集結して、総動員法によって全国民を武装、焦土作戦や竹槍攻撃で米軍に抵抗、さらに日本本土喪失後も満州(現在の中国東北部)首都新京に遷都して中国大陸で、日本と友好関係にあるはずのソ連のバックアップを期待して徹底抗戦する」(外務省編『第二次世界大戦終戦史録)との妄想的な持久戦論が先入観念として支配していた。
被爆者と沖縄住民の嘆き
半世紀近くたった今日なお、ヒロシマ・ナガサキの被爆者たちから、感傷というにはあまりにも重く、「天皇裕仁があの年の七月下旬のポツダム宣言を即座に受諾していたなら・・・・・」、と痛苦の声を耳にする。「天皇裕仁が二月の近衛上奏に耳を傾け、すぐに和平に踏み切っていたならば・・・・・」、この悔恨もまた兵士よりもはるかに多く住民が殺された沖縄戦や東京大空襲はじめ日本列島無差別爆撃の犠牲者たちの、怨念であり嘆きである。
天皇裕仁が戦争継続に固執し、「もう一度戦果をあげてから」としたその戦局観を、彼は一体どこに求めていたのか。
近衛上奏のさい同席した内大臣木戸幸一の日記によれば、この時天皇は「陸海軍共敵を台湾沖に誘導するを得ば是に大損害を与え得るを以て、其の後、終結に向かうもよしと思う」と付言していたという。
すでに史実そのものと、識者による研究の成果は、それが結果的に「沖縄戦」だったことを明らかにしている。開戦責任に加えて、「遅すぎた聖断」という天皇裕仁の戦争責任を明確にし糾弾した最適の言葉が、のちに沖縄から生まれたのは正しかった。
当時米軍は天皇と大本営の予測の裏をかくように台湾上陸作戦を回避し、ストレートに日本本土に近接する沖縄進行を目ざした。
千五百隻の艦船と航空機、五十万人を超える大軍の海と空と陸からの総攻撃にさらされた沖縄は、大本営の作戦計画によって、その米軍に少しでも多くの出血を強要し、日本本土への最終攻撃を遅らすことだけを目的に、無情にも「捨て石」として扱われた。三月末から約三カ月にわたる死闘の末に、当時五十万人の人口の三分の一近くの住民が殺され、在島の十五万守備隊兵士もその約半数が戦死した。
この戦闘の過程で、当初からの劣勢に焦慮し「もう一度戦果を」と固執する天皇裕仁の不満を体した大本営の作戦変更の命令により、飛行場奪回の強行による甚大な出血や、戦艦大和の無謀きわまる出撃と悲惨な末路に象徴的は特高攻撃が、随所に連続して展開された。
沖縄の失陥に直面して、この時期からようやく天皇裕仁には、和平に向かって重い腰を上げるようになったといわれる。現地で日本軍が沖縄西南端に追い詰められ、ついに軍司令官牛島中将以下が自決したのが六月二十三日。その前日の六月二十二日天皇は、「戦争の指導についてはさきに御前会議において決定をみたるところ、他面戦争の終結に就きても、この際従来の観念に囚わるることなく、速やかに具体的研究を遂げ、これが現実に努力せんことを望む」(『木戸幸一日記』)と最高戦争指導会議の席上指示している。「遅すぎた聖断」の理由を表面に現れた歴史の事実は、このように証明している。
第八陸軍技術研究所
一方、ちょうどそのころ、第八陸軍技術研究所から上級の陸軍兵器行政本部に一通の報告書が届けられた。
『アクチノウラン』研究現状 (第2回)
昭和二十年六月十八日
第八陸軍技術研究所
当所ニ於テ実施中ノ「アクチノウラン」研究ノ現況概要左記ノ如シ
一、理研仁科研究室ニ於ケル熱拡散法ニヨル「アクチノウラン」分離ノ研究ハ、数回ノ実験ノ結果不可能ナルコト判明シ、「アクチノウラン」ノ原子核「エネルギー」ノ研究ハ中止スルコトトナレリ。
二、「アクチノウラン」分離ハ目下殆ド不可能ナルコトヲ以テ、敵国側ニ於テモ「アクチノウラン」ノ「エネルギー」利用ハ当分為シ得ザルモノト判明セルヲ以テ、研究ノ中止7モ不可ナラズト考ヘラレアリ。
三、京都帝国大学理学部荒勝教授ハ別ニ遠心分離法ニヨル「アクチノウラン」分離ニ就キ研究中ノ由ナリ。(此研究ハ海軍関係ト連絡研究中ノモノナリ。)
四、「アクチノウラン」利用ニ関スル研究ハ理研仁科研究室ニ於テハ当分中止ト決定セルモ、「アクチノウラン」ノ原子核「エネルギー」利用ノ可能性ハ理論上明白ニシテ技術的問題ナルヲ以テ、京大荒勝教授ノ研究ニ就テハ関心ヲ保持スベキモノト考エル。
付記 一、「アクチノウラン」利用ノ研究ニ関シ軍需省ハ「ウラン含有鉱物」ヲ奨励鉱物トシソノ産出ヲ助長シアルヲ以テ、「アクチノウラン」利用ニ関スル研究中止ニヨリ陸軍省トシテ「ウラン含有鉱物」ヲ必要トセザル場合ニハ、至急非鉄金属局鉱山第二課長ニ連絡スベキコト。(以下略)
主題の「アクチノウラン」とは」原子爆弾の主要原料の「ウラニウム二三五」の別名。この報告書が提出されて事実上戦略の日本製原爆開発研究は不成功に終わり中止された。報告書の作成者は、当時陸軍技術少佐で第八陸軍技術研究所員として主としてウラン鉱採掘の分野を担当して原子爆弾製造開発に携わった当事者の一人、山本洋一氏。金属化学の専門家として戦後は久我山高専教授や日大教授を務めた。
原爆開発に皇族が関与
一九七六年、山本氏が著した『日本製原爆の真相』(株式会社創造刊)は、原爆製造に挫折したものの、その過程の内幕を明らかにするとともに、皇族による推進指導の事実を指摘したうえで、その上に君臨する天皇裕仁の関与をも十分推理させるものとして興味深い。
「昭和十九年六月のはじめに、三笠宮は南方よりウランを含む燐灰ウラン鉱と称するものを持って帰られ、理化学研究所の飯盛(里安)博士に鑑定を依頼されたが、それはただの長石であったとのエピソードもある。」
「戦局の急迫を心配された三笠宮が、原子爆弾についてとくに興味をもたれ、昭和十九年六月二十五日に番町の御殿に仁科(芳雄)博士、飯盛博士、鉱物採取で有名な長島音吉氏を招かれて、原子爆弾とそれを製造するために必要なウラン鉱物の資源などについて、高松宮とともに話し合われた。この話は後日、私がウラン鉱物調査の担当を命ぜられて、七月十八日に理化学研究所に、飯盛博士を西技術中尉とともに訪ねたときに聴いた。」
「航空本部が、とくに昭和十九年六月ごろから原子力研究に力を入れたのも、高松宮・三笠宮の考えに添うためで合ったことも事実である。そのためすでに研究を中止していた海軍においても、海軍技術研究所化学研究部の北川技術中佐を担当として、京都帝国大学理学部荒勝博士を中心とするウラン原子力に関する研究を行うようになった。・・・・・このように日本でも原子爆弾の研究が行われていたのは事実である。極めて秘密であったため、原子物理に関係ある科学者ですらも知らなかったのも当然である。」
著者の山本氏は本書の別のところでもくり返し原爆開発製造の推進者として、裕仁天皇の実の弟たちの名を挙げている。もっとも陸軍航空本部が仁科博士にウラン研究を依託したのは太平洋戦争勃発の一九四一年からといわれ、海軍も一九四二年七月に仁科博士を委員長に著名な科学者を総動員して「物理研究会」を組織し、「原子力機関」の研究をはじめていた。したがって高松宮・三笠宮のプッシュによって一九四四年夏、マリアナ沖海戦で日本海軍の連合艦隊が消滅し、その後日本列島じゅうたん爆撃の出撃基地となったサイパン、テニヤン両島が失陥するという急迫した戦局の中で、日本製原爆の開発研究に拍車がかかり、本格化したわけである。当時の金で二千万円、今日の二百億円にも相当する予算が投入された。原爆が製造されたあかつきには、サイパン、テニヤンやアメリカ本土を攻撃して一泡吹かせ、原爆製造に至らないまでも動力源として原子力エンジンが開発できれば、通常兵器によるアメリカ本土爆撃を軍当局は夢みていた。
『サンフランシスコけし飛ぶ』
この時期一九四四年六月は、先にふれたマリアナ沖海戦の敗北とサイパン、テニヤン両島の失陥により、客観的に太平洋戦争の大勢が決したといわれる。にもかかわらず、あるいはそれだからこそというのが妥当かもしれないが、一九四四年七月号の大衆文芸雑誌『新青年』に「桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ」と題して、日本製原爆と原子力エンジンの開発に成功し、さっそくアメリカ本土でニューヨークにつぐ大都会の一つ、西海岸に面したサンフランシスコ市を急襲、原爆を投下し、すべての高層建築を破壊、七十万市民を全滅させて、日本に降伏を迫るという空想的な科学小説が掲載された。作者は「立川賢」氏、開発過程で事故死する話もおりまぜて、興趣をそそる内容となっている。
その詳細については『文化評論』一九八九年八月号に紹介したのでご参照願えれば幸いだが、わが国では国民大衆に向け、おそらくはじめて「原子爆弾」ということばが使われた事例で、それは七十万サンフランシスコ市民全滅という事態を虚構して勝ち誇り国際法違反の非人道的行為を一顧だにしない、戦慄的名日本軍国主義の残忍性を物語る、恥ずべき作品の発掘だった。さらに二カ月後の『新青年』の九月号には「無限爆弾」の題名で、インド国内で米英両国が製造中の原子爆弾を、日本人スーパーマンが潜入して爆撃するという冒険小説も登場している。
敗戦必死の現実の戦局をひたかくしにし、極秘に科学者を動員、その尻を叩く形で原爆製造研究所を督促した段階で、国民にはこれが最後に吹く「神風」とばかりに、原爆開発製造の成功と先制使用による一打逆転の夢を抱かせ、さらに破滅的な戦争継続への動員を煽り立てた。
「米本土空襲、爆砕の夢は吾人の抱くもののうちもっとも大いなるもの。本号では立川賢氏が科学的見地に立っていち早くそれを実現してくれた。夢を夢とするは痴人である。戦うものにとっては、あらゆる夢は現実でなければならない。ワシントン城下の誓いに拍車をかけよう。」
日本製原爆投下小説を掲載した『新青年』一九四四年七月号は、「編集後記」でもその掲載の意義を強調して国民を鼓舞激励している。
皮肉にもそのわずか一年後、現実の歴史がまったく逆に推移したことは周知の事実である。
天皇の名代なればこそ
米英両国の壮大な原爆製造のマンハッタン計画にくらべ、その規模も内容も大差をつけられながらも仁科博士を中心に日本でも原爆製造計画が進んでいたことはこれまでも明らかにされてきたが、実はその主唱者であり督励者が、高松宮と三笠宮の皇族であったことはあまり知られていない。
海軍大佐高松宮宣仁は砲術専門の軍令部員、三笠宮崇仁は陸軍騎兵少佐で大本営参謀。言うまでもなく二人は天皇裕仁の実弟。十五年戦争中しばしば天皇の名代としても前線におもむいた。『日本製原爆の真相』は別の箇所でこうも書いている。
「兵器行政本部長が、にわかにウラン資源調査を命ぜられたのは、むしろ三笠・高松の両宮殿下の話から、仁科博士の研究に必要なるウラン化合物を集めることを時の総理大臣東条英機大将より命じられたからであった。ことの根源は、仁科博士が原爆の可能性を両宮殿下に話されたことのあった。」
高松宮・三笠宮とも皇族といえども一介の軍人。大元帥天皇裕仁の名代としてだけそれぞれ陸海軍を動かすことができた。したがって仁科博士の進講の結果、二人の発想やそれぞれの一存によって、それまで中断していた陸海軍での原爆開発製造研究が一九四四年六月から一九四五年六月にかけて再開・本格化したものとは到底考えられない。二人の弟宮から仁科構想を耳にし、二人の弟宮に指示してそれぞれ陸海軍手分けして急速な原爆開発製造の成功を期待した天皇裕仁の影の存在を私は推理する。
『日本製原爆の真相』では、著者が一九四四年七月三十日に千代田区の技術員でかき移したとする極秘資料の全文を紹介している。
戦時研究三七ー一ノ実施要領及構成
研究課題 放射能元素ニ関する研究
期間
開始 昭和十九年五月 終了 昭和二十人三月
延長終了予定 昭和二十年七月
研究方針
(一)重量二一〇瓲ノ電磁石ヲ有スル「サイクロトロン」ヲ用ヒテ強力ナル放射性元素ヲ生成ス
(二)右ノ放射性元素ヲ利用スル応用研究ヲ行ナフ
課題分類及戦時研究員
(一)放射性元素生成ノ研究
理化学研究所 仁科芳雄(主任) 理化学研究所山崎文雄
理化学研究所 新間啓三 理化学研究所 杉本朝雄
(二)放射性元素の利用
理化学研究所 矢崎為一 理化学研究所 玉木英彦
理化学研究所 竹内 柾 理化学研究所 木越邦彦
戦時研究三七ー一ノ担当庁ハ陸軍省。担当官ハ陸軍航空小山技術中佐ナリ
戦時研究「三七ノ一」及「三七ノ二」ハ共ニウラン原子エネルギーノ利用ニヨル動力及爆薬ニ関スル研究ヲ目的トスルモノナリ
戦時研究三七ー二ノ実施要領及構成
研究課題「日」研究(「ウラン」「原子エネルギーノ利用」)
期間 第一次終了 昭和二十年十月 第二次終了 昭和h二一年十月
目標 目的物質ノ軍用化ニ付必要ナル資料ヲ探求スルニアリ
研究方針
功績ヨリ目的物ヲ分離、同位元素ノ分離、基本数値ノ測定等ニ関スル研究並ニ応用ニ関スル検討ヲ行ナヒ活用上ノ資料ヲ得ントス
課題分類及戦時研究員
全般 京都帝大 荒勝文策(主任)
原子核理論 京都帝大 湯川秀樹
ニウトロン理論 名古屋帝大坂田昌一 ウラン分離理論 京都帝大 小林 稔
基本測定ノサイクロトロン 京都帝大 木村毅一
同位元素ノサイクロトロン 京都帝大 清水 栄 質量諸測定 大阪帝大 奥田毅
弗化ウラン製造及放射能科学 京都帝大佐々木申二
原子核化学 京都帝大 堀場信吉 ウラン採取金属ウラン 京都帝 大岡田辰三
弗化ウランノ性質並ニ基本測定 京都帝大 荻原篤次郎
重水 大阪帝大 千谷利三 弗素弗化水素 東北帝大 神田英三
サイクロトロン用発振装置 住友通信工業㈱ 小林正次 宮崎清俊 丹羽保次郎
超遠心分離器 東京計器㈱ 新田重次 振動回路 日本無線㈱ 高橋勲
(一)本研究ハ陸海軍技術運用委員会ニ於テ統括ス
(二)本研究遂行ニ当リテハ戦時研究三七ー一ト随時密接ナル連絡ヲ図ルモノトス
天皇裕仁は、すでにその前年の一九四三年六月ごろ、南方ガダルカナルでの敗戦や北方アッツ島での玉砕の悲報に直面して、「何トカシテ何処カノ正面デ米軍ヲ叩キスケルコトハ出来ヌカ」とか「海軍ハ一体ドウシテイルデアラウカ。何トカ叩ケナイカネ」としばしば不満をもらしていたことはよく知られている。
一九四四年七月号『新青年』の「サンフランシスコ消し飛ぶ」は、広く国民に幻想をもたらし、かえって悲劇的結果を生んだが、それは統帥権者で最高戦争指導者天皇裕仁をもその気にさせ、さらに誤りを深めて戦争継続を長引かせることになったのではあるまいか。
「ゴルフでもして話が・・・・」
やや唐突めくが、天皇と弟宮たちとの情報交換や意思疎通をはかる非公式の場として、「天皇とゴルフ」の問題がある。
天皇裕仁が戦前戦後を通してことのほか大相撲が好きで、年中行事のように観戦のために足繁く両国国技館へ出向いたのはよく知られたことであるが、天皇自身がプレイして愛好したスポーツは、水泳、乗馬、テニスのほかにゴルフがあった。戦時中は柔・剣道や水泳など以外はとかく敵性スポーツとして排斥されがちだったが、皮肉にも天皇得意のスポーツは舶来のものが多かった。これまで報道・公刊された『天皇語録』の中でも、ゴルフについていろいろと口にしている。
「
記者 陛下はいつごろまでゴルフをされたいましたか。
天皇 ゴルフは大体、ええ支那事変のころ、昭和十二年ごろ。
記者 皇居の中にも、ホールがあったとか。
天皇 あの、吹き上げに九つばかり。
記者 どこでお習いになったのですか。
天皇 実は秩父宮がされたんでね。一緒にすることになって、一番最初にやったのは、今の迎賓館の付近でね。秩父宮さんと高松宮さんから教わってね。」(一九六七年八月二三日那須御用邸で)
「自分のところに来てくれるといい、結局まあゴルフでもして話ができればいいけれども、近衛はゴルフもこのごろやめているようだし、まあ研究所あたりに見に来るというようなことで、いつか呼んで話もしてみたい。」(一九三六年八月二十八日、側近たちから近衛への注意を頼まれて)
「どうもゴルフというものは落ち着き作るには誠によい。あのクラブで球を打つときは、どうしても無心にならなければうまくいかない。テニスはまた敏捷になるために大変よい。」(戦前、牧野伸顕内大臣に対して)
皇居にゴルフのコースが九ホールもあったのも驚きで、当時の皇居の広大さを思わせるが、天皇裕仁はそれを政治的密談の場にも利用していた。まさか終戦間際まで天皇を中心に皇族たちがゴルフに打ち興じていたとは考えられないが、こうした機会も利用して実の兄弟の間柄の天皇と高松宮・三笠宮とが、公式・非公式を問わず、随時随所に、戦局打開の方途に就き、報告や協議、意見交換をし合ったりしていたことは容易に想像できる。
「原爆投下、やむを得ない」
その後、かなりの時日を経過した一九七五年十月三十一日、アメリカ訪問から帰国直後に天皇裕仁は、日本記者クラブの記者団との会見の席上、広島・長崎への原爆投下についての感想を求められて答えた有名なことば。
「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも広島市民に対して気の毒ではあるが、やむを得ないことと、私はおもっております。」
当時この天皇裕仁の発言は、「広島・長崎の被爆者たちの悲しみや怒りを知らないもの」「戦時中だからやむを得ないとするなら、これからも核兵器使用を容認し、人類破滅の核戦争を肯定するもの」などと、広く国民から厳しく批判されたものであった。しかし思い起こすならば、その三十年前日本製原爆開発に関与し、その経過を熟知していた立場だったとするならば、この冷然と思える発言は、むしろ率直な告白といえないでもない。落とそうとしたものが、科学戦に敗れ、先に落とされてしまった。したがってその国際法違反はとがめられずに、「やむをえない」こととなる。