橋本・伊都支部(T・H)
2月が終わります。自分自身の誕生日のある2月ですが、2月19日の周辺は、何人もの人々にゆかりのある日が重なっています。
石川啄木の誕生日は、1986年2月20日です。
啄木にはこんな歌があります。
秋の風我等明治の青年の危機をかなしむ顔撫でて吹く
時代閉塞の現状を如何にせむ秋に入りてことに斯く思ふかな
つね日頃好みて言ひし革命の語をつつしみて秋に入れりけり
「一握の砂・悲しき玩具」という文庫本を携帯して、好きだった歌に万年筆で線を引いて読んでいた時期があります。石川啄木には、「果てしなき議論の後(二)」という詩もあります。
われらの且(か)つ読み、且つ議論を闘(たたか)はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜(ロシア)の青年に劣らず。
われらは何を為(な)すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳(こぶし)に卓(たく)をたたきて、
'V NAROD !'(ヴナロード)と叫び出づるものなし。(以下略)
啄木が亡くなった1912年4月13日の次の日は、あのタイタニック号が氷山に衝突した日だそうです。1910年に韓国併合があり、1911年には逮捕されていた幸徳秋水が大逆事件で死刑になっています。
日本は、1894年に日清戦争、1904年に日露戦争を引き起こし、次第にアジアに対して侵略戦争を展開しました。韓国併合は、朝鮮半島を完全に日本の植民地にした決定的な事件です。朝鮮半島は、日本が第2次世界大戦で敗北するまでの35年間、植民地となりました。
啄木は、この時代の流れに敏感に反応し、「果てしなき議論の後(二)」という詩を書きました。明治の最後の年に亡くなった啄木は、明治という時代をはるかに突き抜けた青年だったように思います。啄木の感傷的な短歌とともに、社会的な意味合いをもつ一連の短歌は、今も人々に受けとめられています。
小林多喜二は、石川啄木の歌を愛した小説家です。多喜二は、1933年2月20日、治安維持法違反で逮捕され、東京・築地警察署で拷問を受け、7時間後に虐殺されています。拷問で、太股はぱんぱんに腫れ上がり、陰嚢はつぶされ、利き腕だった右手の人差し指と中指は、反対側に完全に折られていました。
新聞に発表された死因は「心臓麻痺」でした。拷問の事実は国民に知らされませんでした。
「蟹工船」や「党生活者」を書いた多喜二は、当時の時代を真正面から描こうとした作家でした。多喜二は、友人で後に作家になった手塚英孝さん(故人)に公園で「誰か体全体で書くやつはいないか、死ぬ気で書くやつはいないか」と語っています。
天皇制の社会体制だった時代は、「天皇は神聖にして侵すべからず」ということを憲法に書いていた時代です。「大日本帝国は万世一系の天皇、これを統治す」という条文を絶対のものとした社会体制のなかで、多喜二は、時代を具体的に大胆に書いた希有な作家だったと思います。多くの小説家が、社会体制に触れることを恐れ、私小説というジャンルに逃げ込んだなかで、多喜二は、社会そのものと、そこで生きたたかう人間を描こうとしました。
1934年2月19日、経済学者だった野呂栄太郎が亡くなっています。野呂は、前年の33年11月に治安維持法違反の罪で検挙されましたが、肺結核による病状が悪化したので、病院に搬送され、そこで死去したのです。彼は、「日本資本主義発達史」などを書いた経済学者でした。日本の資本主義発達について分析した業績は大きかったと思われます。日本の近代社会の分析は、野呂栄太郎を抜きにしては語れないと思われます。
2月の19日と20日の日について、以前「しんぶん赤旗」の文化欄に「鮮烈なる2月」という見出しで記事を書いた方がいました。
2月が来るたびに「鮮烈なる2月」という言葉がよみがえってきます。
治安維持法が死刑を含む法律に改正され、弾圧の対象が共産主義者から国民全体に変えられようとしたときに、国会でただ1人最後まで反対した代議士がいました。それが山本宣治です。山宣の愛称で親しまれたこの人は、1929年3月5日、七生義団を名乗る男に宿泊先の旅館で刺殺されました。山宣は、全国農民組合大会の演説で、「山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない、背後には大衆が支持しているから…」と訴えています。この言葉に、憲兵の「弁士中止」発言が重なり、演説は中断させられました。当時は憲兵が、集会に出席してにらみをきかし、発言中止も「集会解散」も意のままでした。京都にある山宣の墓には、この訴えが刻まれています。
山宣は、生物学者でクリスチャンでした。この人は、産児制限運動で農村に入り、農家の貧しい状況を知る中で、次第に政治に関わり、多くの人に押し出されるようにして、第1回(男子)普通選挙に労農党から衆議院選挙に出て国会議員となった方です。
日本の近代史は、民主主義と国民主権を生み出すうえで多くの人々の命が犠牲にされた歴史をもっています。国民を弾圧してきた統治の天皇制は、中国大陸への全面戦争と第2次世界大戦を引き起こし、アジア諸国民に2000万人というおびただしい犠牲を押しつけ、日本国民の側には、310万人という戦死者をうみだしました。
「他民族を抑圧する民族は自由ではあり得ない」
この格言は、過去の日本の歴史と現代政治を鋭く告発しています。