万年伍長と平和の息子
私の父は、明示34年(1901年)和歌山県有田郡生石村丹生(現在の金屋町)生まれで、生存すれば102歳になります。
貧農層の子だくさんのみかん農家に生まれました。両親の学資の援助なしで耐久中学へ3里4里と徒歩で通学しました。
卒業後は、昭和初期の景気後退前の年に神戸市の米問屋に婿養子として分籍、栄町通りで船具商店を開店して郷里有田郡出身では成功しました。
しかし、不況による倒産後は、郷里に長男(私)を預けて長田地区でゴム靴工場を経営して2度目の成功となりました。3度目は、偽満州国大連市に飛んで、関東軍の模擬兵器斡旋商を経て帰還しました。
ところが、仕事が転々としたままで、事業が結花しなかったのは数度にわたる軍役があったからでありました。以下の軍歴をみてください。
陸軍歩兵伍長 T・T 履歴
大正10年12月1日1年志願として歩兵第61連隊第10中隊に入隊 略 大正11年11月30日伍長 同日現役満期 大正13年7月20日から歩兵第21連隊勤務 大正15年5月5日から歩兵第61連隊勤務 昭和5年4月1日後備役 同年簡閲点呼 昭和6年7月13日から歩兵第70連隊勤務 昭和8年簡閲点呼 昭和12年9月28日から歩兵第70連隊に勤務 昭和13年6月16日動員下令同隊留守部隊へ 歩兵170連隊第7中隊に編入 7月2日下関出帆 略 7月4日奉天 略 10月1日大連発 12月12日白耶士湾上陸 広州東北で追撃戦参加 12月24日まで警備勤務
戦病歴
11月3日より第104師団第2野戦病院に入院 略 台湾、広島、白浜、金岡の陸軍病院 昭和15年4月1日金岡病院より予備役免除
私は父と、大連市から帰国後、住友金属和歌山製鉄所での学徒動員の後、製鉄所の要請で大阪の機械専門学校在学中、父の住所、和歌山市北新町2丁目2番地は、米銀の焼夷弾の雨によって焼失しました。すぐに帰宅しました。
私の家族は、近所の寺で1週間の間、軒を借り、毎日昼1日1個のおにぎりを行列配給でもらったものです。そのうちに数十人いた避難民は1人2人と、それぞれ、身寄りをたどって疎開していきます。
私は病人の父を連れて、一家5人が金屋町丹生の廃寺に疎開しました。その後、村の区長さんらの計らいで、みかん貯蔵庫に入れてもらいました。便所や風呂がなく、みかん畑の一角に囲いをして用を足しました。谷川で人のいない間を見計らって身体を洗いました。
そのうちに、日1日と父は腎臓で身体が肥大していきます。
陸軍からは医師が毎日のように来てくれました。やがて、薬石の甲斐もなく死亡したのですが、名誉の戦死者として扱ってくれるとかでした。
しかし、その後、これは証人になる軍医が不在だとかで認定保留となります。
私は、村に住む叔母の計らいで、簑島の大日本電線会社に勤めました。この会社で3年間勤めましたが組合の代議員に選任されてリストラされ、また、叔母の世話でデモしか教師となりました。この後、和歌山県教職員組合に加盟、有田支部の専従役員となり、K・Y支部長、Y・Y書記長らとともに勤評反対闘争、差別事件、安保闘争などをともに経験します。
考えてみると、戦争は庶民がいつも犠牲になります。
2004,3,13 不屈東支部版№11号「私の雑記帳」より修正加筆 (H・K)