(2002年)9月17日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で行われた日朝首脳会談が国際的にも注目されたが、中でも「拉致」事件の衝撃が大きかった。全国紙をはじめ雑誌、テレビ、ラジオなどマスコミを大いに賑わしている。
9月18日の「赤旗」に志位委員長の談話
① 国交正常化交渉再開合意は重要な一歩だ。懸案を道理ある形で解決し、両国関係は、敵対から協調に転換をと強調する。
② 拉致という許すことのできない犯罪に厳しい抗議を表明するとともに、真相を全面的に明らかにし、責任者の処罰、被害者への謝罪と賠償がおこなわれることは当然である。
と発表されている。
同日の同紙「潮流」で「紛れもない国家による犯罪」「簡単な安否情報の提供だけで事件を終わりにしてはなりません」「金正日総書記は、北朝鮮の『いまわしい』犯行をわび」「再び起こさない、ともいいました」「小泉首相も過去の植民地支配への『反省』を口に」した。『早い時期に国交正常化をめざすと合意した。両首脳の誠意が問われて」いると。
本題の私の「拉致」にもどるが、拉致を「新字源」(角川書店)で引いてみると、「ひっぱっていく、引き連れていく」とある。まさしく私たちは57年前(1945年9月)に、中国東北(旧満州)から当時のソ連領へ「引き連れて行かれた=拉致された」のである。
関東軍に属していた私たちは、棄てられた兵であることも知らず8月15日以降も戦闘をつづけ、私の部隊は8月22日に北満州の国境近くで、ソ連兵に武装解除され、その後1ヶ月、関東軍の蓄蔵物資をソ連へ搬出の荷役に従事させられ、いざダモイ東京(復員帰国)となったのは9月も末に近かった。軽装でいそいそ貨車につめこまれた兵士たちは列車が南下すると信じきっていたが、トイレ休憩で停車してみれば、夕日が左手に見える。輸送列車は北上していたのである。ソ連に拉致された関東軍60余万の行き先は、遠くモスクワからウクライナ地方、シベリヤ全土、外蒙に及んでいる。死没者6万余のうち9割近くは、1年以内に悲惨な最期を遂げている。
2002年8月17日 しんぶん赤旗の「潮流」に「57年前日本のポツダム宣言受諾の直後、大規模な国際的拉致事件が起こった」と、この事実を話題にしている。ポツダム宣言第9項に「日本軍隊は完全に武装を解除せられたる後各家庭に復帰し、平和的且つ生産的な生活を営む機会を得しめられるべし」とある。中国の満州で武装解除されソ連領シベリヤへ、私たちは拉致され強制労働を強いられた。ソ連・スターリンの国際法に違反した蛮行である。そして連行者の労働を賠償行為だとして賃金を支払っていない。ひどいのは日本政府。南方地方に捕虜になった日本兵には、米英側の賃金カードにもとづき賃金を支払っているが、ソ連の抑留者(拉致者)には「日本に国際法上の義務がない」と裁判で強弁している。
2002年6月5日 毎日新聞 全国抑留者補償協議会(全抑協本部・静岡市)は運動と交渉を重ね、ロシア政府がようやく労働証明書を発行し、又本年3月の衆議院厚生労働委員会で小沢和秋委員(共産党)が存在を明らかにした、1947年の「外務省直属の終戦連絡中央事務局が、GHQに対してソ連への申し入れと提案の仲介を依頼した文書(旧ソ連が負担すべき賃金を、日本が肩代わりすると考えていた内容)を追及したことを受けて、賃金の国家賠償を求めて国会請願をはじめた。
事務局長は「元抑留者は平均年齢が80歳を越えた。政府は結論を急ぐべきだ」と結んでいる。私も82歳を超えた。余命が少ない。仲間の多くは20代前半で、戦場で、抑留地で果てている。私たちは一つになって行動せねばならない。 (U.T)