忘れられない思い出
先日来、北朝鮮の拉致問題が大きく取り上げられ、ご家族の方々の無念の気持ちが伝えられているが、私には忘れられない辛い思い出がある。
1945年(昭和20年)、私たちは、学徒動員で愛知県半田市の中島航空株式会社で働いていた。同じ職場に北朝鮮(咸鏡北道といっていた)から強制連行(拉致)されてきた50名ほどの若い朝鮮人たちが働いていて、私たちとすぐ仲良しになった。私たちは籠池寮、彼らは隣の歩いて数分の所にある長根寮に泊まっていたが、「一度遊びに来ないか」と誘われて、夜遊びに行ったこともあった。
それは終戦間近い7月、米空軍機B29の空襲に遭った。その日は朝から空襲警報が出ていたので工場は休みであった。やがてB29の爆音が聞こえてきたが、「どうせ工場をやるのだろう」と思って眺めていると、工場を素通りしてこちらのほうへやってくる。「危ない! 逃げろ!」と皆夢中で逃げたが、3分ほど走った頃、上からザアーと音がして爆弾が落ちてきた。思わず地面に伏せた途端、ドンドンと地面が鳴って体が跳ね上がるような振動を感じ、バラバラと土くれをかぶった。
「やれやれ助かった」と、皆と顔を合わせて寮へ帰る途中、思わず顔をそむけたくなるような無惨な光景を見た。それはあの一緒に働いていた朝鮮人たちが一人残らず爆死していた。あたり一面血だらけで、手足がもぎとられたり、胴体が裂けたり、いま思い出してもぞっとする。殆どは20代から30代の若者で、中には15,6歳の童顔もそこかしこにあった。
与野党の一部議員などは、この種の出来事は「戦争中だからやむを得なかった」というが。戦争が終わって早や60年になろうとするのに、日本政府はいまだに謝罪も補償もしていない。話にきけば、戦争中朝鮮から何万人という人を連行(拉致)して日本の炭鉱や軍需工場へ送り込み、強制労働のあげく、多くの人を死なせたという。その責任はどうしてもとってほしい。日本の方も朝鮮の方もそのご家族の気持ちは同じはずである。
最近寄せられたかつての級友の歌です。
「 爆死せし徴用工囲みて号泣す 」
(H.H)