前進座公演
生くべくんば
民衆とともに
死すべくんば
『布施辰治』の生涯に学ぶ
前進座が創立七五周年を記念し、戦前からの人権弁護士・布施辰治を描いた「生くべくんば死すべくんば」を公演した。布施辰治は、一八八〇(明治一三)年、宮城県牡鹿郡蛇田村(現石巻市)の農家に生まれた。一九〇二(明治三五)年、明治法律学校を卒業し、判事検事登用試験に合格。〇三年東京弁護士会に弁護士登録。以来、明治、大正、昭和の五十年を民衆にささげた。一九二一(大正一〇)年、神戸の三菱・川崎両造船所の大争議。これらの闘いの中で自由法曹団を結成。二三年、朝鮮独立運動の義烈団事件の弁護をはじめ、天皇暗殺疑惑の朴烈、金子文子などの弁護に立つ。一九二九年、三・一五事件の大阪地裁での弁護活動が不当と懲戒裁判に。翌年は新聞紙法違反容疑で起訴。三一年、解放運動犠牲者救援弁護団を結成、幹事長となる。三二年、懲戒裁判で「除名」となり、弁護士資格を剥奪。新聞紙法違反事件では禁錮三カ月の実刑で豊多摩刑務所に下獄。三三年、日本労農弁護団の一斉検挙で治安維持法違反で起訴。「皇太子誕生恩赦」で弁護士資格を回復。こつなぎ三七年、「小繋事件」など岩手山村の入会権事件に取り組むが、三九年一月に治安維持法事件で懲役二年の実刑が確定、千葉刑務所に下獄。弁護士資格を抹消される。戦後、自由法曹団再組織、日本労農救援会(のち日本国民救援会) 中央委員長。三鷹・松川事件、メーデー事件の弁護と、闘いは止むことなく続いた。一九五三年九月一三日逝去。享年七三歳。私が秘書を勤めた青柳盛雄さんは生前、東大を出て布施事務所に入った理由を「布施さんを慕って弁護士として共産主義運動を、合法舞台で援助しようと思ったから」といわれていた。
(幹)
2007年4月15日 『不屈』 中央版 №394