四、日本における戦争責任追及の弱さ
1 日本国民は戦争の被害者か、加害者か
ドイツやイタリアにくらべて日本の場合の戦争責任の追及の仕方は弱く、そのことが国家賠償や補償にさまざまなゆがみを与えていることはあきらかです。それだけではありません。最初にものべましたけれども、過去の戦争責任追及の弱さが、現在の戦争肯定論を生みだしているのです。
戦後の日本の平和運動は戦争の悲惨さを強調することから出発しました。とくに広島・長崎の披爆体験とビキニ水爆実験の犠牲者とが、いわば日本の平和運動の原点だといってよいでしょう。それはそれとして大切なことですが、しかし、そういう悲惨さや犠牲を生みだす原因をつくったのは誰なのかということを、聞いつめる姿勢は弱かったのです。
一九六0年代から日本の平和運動は戦争の悲惨さを訴えるだけでよいのかという反省が生まれてきました。戦争の悲惨さを訴えるのは戦争の被害者の立場からのものですが、日本はアジア諸国にたいしては加害者です。このことをぬきにして、被害を訴えるだけでは平和運動としても不十分であり、歴史認識としても正しくありません。こういう反省からアジア太平洋戦争における加害の側面が重視されるようになり、一九六九年の検定に合格した高校世界史のある教科書(七一年から使用)にはじめて南京大虐殺の記述があらわれます(日本史の教科書では七四年版から)。この検定のときに、「日本の恥になるようなことを掘りだす必要はないじゃないか」という意見がだされたのにたいし、著者たちは「隠す方がかえって恥」といって抵抗したといわれています。その後、従軍「慰安婦」や七三一部隊、強制連行などの記述も教科書にとりいれられ、家永教科書訴訟にたいする一九九七年八月の最高裁判決では、七三一部隊についての記述を削除させた検定は違法であったことをみとめるにいたりました。
日本による加害の事実をみとめることはきわめて重要なことですし、みずから残虐行為をおこなったことを率直に告白している旧軍人の方々の誠実さと勇気にも頭がさがります、しかし加害責任の追及がそこでとまってしまったのでは、戦後すぐのころにいわれた「一億総ざんげ」になりかねません。個々の兵士たちを残虐行為などの極限状況へ追いこんでいったのは誰だったのかを問いつめることが重要です。私は軍隊には入りましたが戦地へはいかないうちに終戦を迎えました。もし戦地へいって敵軍とむかいあったとき、あるいは捕虜を殺せと命じられたとき、人を殺す勇気があるかどうか、あるいは命令を拒否することができるかどうか、考えていると大変不安になります。個々の兵士はたとえ善人であっても、戦地では相手を殺さなければ自分が殺されるのです。とすれば、善良な日本の青年をそういう状況に追いこんだものこそ、真の加害者なのです。
アジア太平洋戦争について語るとき、日本人は戦争の被害者であったという面と、加害者であったという面と、二つ側面をもちます。どちらの面を強調するかということで、ときに意見が対立することもありますが、私はいずれの面を強調するにせよ、国民をそういう状況に追いこんだものの戦争責任こそ追及されなければならないと思っています。
ところが、すでにのべましたように、日本では日本人自身の手による戦争責任の追及はおこなわれませんでした。戦争責任の追及は東京裁判という「外圧」によっておこなわれました。そのために現在もなお、戦争責任の問題や歴史認識の問題について、歴史の真実をゆがめようとする動きがくりかえしくりかえしあらわれるようになっているのです。