司馬遼太郎の歴史文学・ 史観などについて (2)
二 「坂の上の雲」への新船氏の批判要旨
日露戦争について司馬遼太郎の結論は、「日露戦争は世界史的な帝国主義の一現象であったことは間違いない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、おいつめられた者が、生きる力の限りのものをふりしぼった防衛戦争であった。一九世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやなら産業を興して軍事力を持ち、帝国主義の仲間入りするか、その二通りの道しかなかった。後世の人が幻想して侵さず、侵されず、人類の平和のみを国是とする国こそ、当時のあるべき姿として、……その基準を当時の国家と国際社会に割り込ませて国家の正邪を決めることは、歴史は粘土細工の粘土にすぎなくなる。……日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、すでにその時から他国の(朝鮮)迷惑のうえにおいて、おのれの国の自立を保たなければならなかった。」というのが司馬遼太郎の出した結論です。
では、何故司馬遼太郎がこうした結論に至ったのか、それは個人の美質をとおして歴史をみるからだと新船氏は指摘しています。(以下、新船氏の考察)
司馬遼太郎は戦車の中で敗戦をむかえた。
「なんと真に愛国的でない、ばかな、不正直は、およそ国というものを大切にしない高官たちがいたものだ、江戸末期や明治国家をつくった人たちは、まさかこんな連中ではなかったろう。」(明治という国家)… 司馬遼太郎のこの怒りが、私心なく活動する人々に強い関心をよせ多くの作品に反映させることになる。ばかな戦争で、無残にも多くの友人達が命を奪われ、自分も死にそうになった。これが日本か、日本人か… 司馬は日本という国と日本人本来の美質(私心のなさ、無私)を問い、作中の人物に仮託された。
「坂の上の雲」の主人公たちである秋山兄弟(兄はバルチック艦隊を破る海軍、弟は騎兵隊)、乃木将軍,正岡子規(芭蕉の権威を無視、近代俳句の確立を、そこには栄達をもとめる姑息さはない)を、この私心のなさをもって描きます。旅順の戦いで乃木将軍が司令官とし無能で、そのために多くの戦死者を出したかも描いています。しかし人間としての私心のなさから肯定しているのです。そしてこの私心のなさは、理想化された武士道であるといいます。
「竜馬がゆく」のなかで竜馬が、大政奉還後、自分は役人にならないと言って西郷隆盛を驚かせます。「ではなにをやるんだ」という問いに「世界の海援隊でもやるさ、自分は役人になるために幕府を倒したのではない。」と、いいます。郷士として土佐の藩政にくちをはさめなく、こうした支配にこうして倒幕のエネルギー転換した土佐の武士(次男坊で浪人)坂本竜馬。司馬遼太郎はこの第五巻あとがきに、竜馬のこの態度、一言が維新風雲史上の白眉と述べ、この大作をこの言葉を念頭において書き続けた、とのべています。
歴史をその当時の人々の受けとめにおいて判定するのが司馬の基本的な歴史のみかたである。それも、まず魅力的な人物を置き、その彼は当時の平均的な日本人の気質を代表しており、それが一心不乱に事に没入する。……虚構の作品世界として登場人物の目から同時代を見るほかないから、その人々が日露戦争をどうみていたかが重要になる。しかし、同時に現在の作者としての目(批評)が働かなければ、それを文学作品として現代の読者に問う意味がなくなる。……司馬は自分の今生きる社会・政治に憤る度合いに応じて、逆に歴史や時代に左右されない人間の美質に関心が移っていった。だが人間個人の美質だけから歴史をながめ、過去のその時代を歴史の一段階として常にやむを得ないものとして肯定していくなら、それは、何処までいっても現実の追認でしかない。「司馬史観」の不幸な完成がそこにある。……日露戦争の戦死者(病死者をふくむ)十万六千人。維新時代の内戦での戦死者は三千六百人であることを思えば桁が違う。これが万やむを得ないと言うわけにはいかない。と新船氏が書いています。
(新船海三郎氏の「史観と文学のあいだ」 は、一九九六年六月四日~八日、しんぶん赤旗 文化欄に掲載されました。)
(つづく)
同盟会員 H・M (日本民主主義文学同盟和歌山支部)