統制された文化4 漫画
中国大陸で反戦思想伝える 清水勲
近代漫画は新聞・雑誌というジャーナリズムの中で発展していった。労働組合思想や社会主義思想が登場してくる日清戦争後には、近代的風刺漫画が小林清親(『労働世界』1897年)、ジョルジュ・ビゴー(第2次『日本人の生活』1898年)といった漫画家によって描かれた。
そして近代的戦争風刺画が日露戦争期から登場してくる。例えば竹久夢二の作と思われる「強制された愛国心」(平民新聞1904年1月17日号)という反戦漫画がある。若い農民が首にひもをつながれて無理やり兵営に引っ張り込まれようとしている。兵役を拒む農民を村長や教師が「愛国心」と書かれた梃子を使って動かそうとしている。後ろでは資本家が扇子をあおいで音頭をとっている、といった風刺画である。
日中戦争期になると治安維持法による日本共産党などへの弾圧が行われるようになる。1929年、共産党員への全国一斉検挙が行われる。漫画家の松山文雄(1902~82)も検挙され、29日間の拘留中に拷問も受けたという。漫画家で後に漫画史研究家になる須山計一(1905~75)は34年、日本プロレタリア美術家同盟書記長として活動中に起訴され、1年余収監される。
国策協力への気運が起こる
国策を是認する者、子ども漫画を描く者以外は活動の場が狭まっていく中、1940年、近衛新体制運動を契機に政党・労働団体は解散し、各種の漫画家団体も自主的に統合して同年8月、翼賛体制下に漫画家の団結を図る新日本漫画家協会が発足する。横山隆一・近藤日出造・松下井知夫ら12人が第1回委員となり、会員63人。機関誌『漫画』を刊行した。
しかし日米関係がますます悪化し新たな戦争への危険が増してくると、会のなまぬるい活動に嫌気がさした加藤悦郎・安本亮一らは脱退して建設漫画会をつくり、国策をより徹底するための教宣漫画を単行本などで発表していく。
41年、太平洋戦争が始まると、漫画家たちから国策に協力しようという気運が起こり、42年5月に日本漫画奉公会が結成される。会長・北沢楽天、副会長・田中比左良、顧問・岡本一平で会員90人だった。
一方、柳瀬正夢(1900~45)のように漫画の筆を折った者もいた。批判を封じられた漫画家たちは戦争の時代をどう生きたのだろうか。岩松淳(1908~94)は33年、反戦ビラ配布などで十数回にわたり逮捕拘留され、39年に妻と米国へ脱出する。太平洋戦争中には絵本を出版したり、日本兵への降伏ビラ「父よ、生きよ」などを制作したりした。
日本人向けの宣伝ビラ多く
中国大陸に出かけたり、住み着いたりした日本人の中には国策を批判する漫画を描いた人たちがいた。1990年に中国で刊行された『抗日戦争時期宣伝画』は、中国革命博物館所蔵の作品をまとめたものだが、その中に「在中日本人反戦同盟」という組織による日本人に向けた宣伝ビラがたくさん見られる。「山東支部」(図1)、「準海区分支部」など複数の支部の作品が掲載され、かなりの数の日本人が関わっていたことがわかる。
その中の一枚に8コマ漫画「日本軍閥の末日」(図2)がある。吹き出しは日本文だが張文元という著名な漫画家のサインも入っている。「シメシメ」「ドンナモンダイ」といった日本人が使いそうな日本語だから、日本人も制作に関わったことは明らかだ。それも柳瀬正夢の字に似ている。特に2コマ目の「リューリュー」はよく似ている。このことから柳瀬と張の合作だと推定される。
柳瀬は日中戦争期に4回、中国大陸に出かけている(5回という説もある)。したがって反戦組織と接触するチャンスはあり、張とも交流して共同制作したものと思われる。戦時にまかれた伝単(敵側にまかれた宣伝ビラ)は、反戦思想を中国大陸の軍人を含む多くの日本人に伝えたのである。
しみず・いさお 1939年生まれ。漫画・風刺画研究家。京都国際マンガミュージアム研究顧問。著書に『漫画の歴史』『四コマ漫画』ほか多数
( 2016年08月24日,「赤旗」)