小林セキ述『母の語る小林多喜二』よみがえる
「太陽は総てのものを平等に照らす」/荻野富士夫
「それ、もう一度立たぬか、みんなのためもう一度立たぬか」と、息子多喜二の頬に自らの頬をすり合わせて叫んだ母小林セキのことは多くの人に知られている。そのセキは、敗戦直後の1946年2月から3月にかけて、多喜二虐殺以来の13年間の「毎日々々重い荷物を肩にしているような辛さ」を一度に払うかのように、「お天道さまを仰ぐような明るい気持」で、肉親から見た多喜二を語っていた。
晩年に身を寄せていた長女チマの嫁ぎ先佐藤家と親しかった、北海道朝里村の郷土史家小林廣による聞き書き『母の語る小林多喜二』である。4月10日付の小林廣「編者の言葉」とともに、口絵として「あーまたこの二月の月かきた」というセキの詩やセキとチマの写真が用意され、札幌の出版社から近刊の予告が出されていたが、おそらく経済的な事情により、刊行に至らなかった。編者小林廣はこの「蹉跌」に苦慮し、さらに聞き取りを加えて2年後に東京での出版を模索したが、これも実現せず、二つの原稿が未完のまま残された。
より細やかに温かにセキ像
編者小林廣による文章の選択や表現という事情を考慮しなければならないが、三浦綾子『母』が形象した秋田弁・なまりの「ボツボツ語る」というイメージからは、かなり離れた口調で語られる。セキと暮らしたご親族によれば、日常は北海道弁であったという。
その語りの内容は、これまでのセキ像を逸脱するものではなく、母としての思いをより細やかに、温かく伝えてくれる。セキの実家の木村家のこと、多喜二虐殺後にその遺骨とともに小樽に戻ったセキが百か日法要を営み、「物学荘厳信士」という戒名をつけてもらったことなど、本書によって明らかになったことも多い。また、多喜二および兄多喜郎の命名が読書好きの祖父多喜次郎(多喜二の年譜上では多吉郎とされる)に由来するとセキが語っていることも、新たな問題提起となる。
多喜二への無償の愛と絶対的な信頼は本書全体を貫いている。拓銀を馘首された多喜二が東京に出ることを決意すると、セキは三星パン支店の経営を次女夫婦に任せ、当然のように多喜二を中心に東京で一家を持とうとする。多喜二の入獄のため1年ほど遅れるが、三吾とともに「親子三人同居の東京生活は和やかなもの」であった。1932年4月以降、多喜二が地下に潜行すると、セキは小樽に戻るが、「私の家は多喜二の家、三吾のいる東京の家だと気付」き、まもなく東京に帰ってくるのである。
セキが秋田と小樽の生活を通じて感得した、「太陽は、総てのものを平等に照」し、「天は自ら助くるものを助く」という信念は、多喜二の文学や生き方を思いつづけることによってさらに確固たるものとなった。それゆえに、敗戦によって到来した新日本において多喜二を大っぴらに語れることを喜び、「今日になって多喜二の考え方は正しいものであったとはっきりと認識させられます」と断言する。
民衆・女性の生き方力強く
仮名ながら田口タキについての語りも親愛に満ちている。初対面から、「本当に綺麗な、そして無邪気で、心持ちのさっぱりした」タキを「娘のように」好ましく思い、タキもセキを「親のように」慕いつづけた。また、多喜二と地下生活をともにした伊藤ふじ子に対して、「日陰の生活をしながらも、多喜二を愛し」てくれたことへの感謝が述べられる。
本書の意義は、日本近代の民衆・女性の一人としてのセキの生き方を力強く伝える点にもある。満13歳で嫁入り後、家の没落・北海道への移住、そして小樽の新興労働者街での小営業などという、近代化や都市化の流れに翻弄されながらも、働くことに喜びを感じ、いつか多喜二らのめざした時代が必ずやってくるという信念を持ちつづけた。「世間の人が幸福になって自分も幸福を受け」るというセキの生き方は、多喜二に受け継がれた。
最初の語りから65年、そして1961年5月のセキの死から50年を経て、多喜二とセキはさらに豊かな人間的な魅力を増してよみがえる。
(おぎの・ふじお 小樽商科大学教授)
『母の語る小林多喜二』は、15日に新日本出版社から発売されます。
( 2011年07月06日 「しんぶん赤旗」)