「非国民」呼ばわりの弾圧拷問と闘った森川淳一
私は昭和17(1942)年3月、国民徴用令で岐阜県各務原の川崎航空機の工場に配置されました。
1年ほどたったある夜、寮で私が同僚に美濃部達吉の「天皇機関説」の話をしていたところ、それを班長(会社の正社員)に聞かれていました。
その夜私は班長と]部の寮生から「非国民」と殴る、蹴るのリンチを受け、翌日、身柄を警察署に移されました。
持っていた弁証法読本・哲学書から倉田百三の『出家とその弟子』なども押収されました。
警察では、憲兵、警官による厳しい取り調べと拷問にさらされました。「いつ、どこで入手したか」
「本(天皇機関説/岩波文庫)を誰にすすめられたか、『天皇問題』に関心を持つようになった動機は」
など・・・。
私には、「天皇機関説」をどこで買ったか、真実思い出せなかった……。そう言っても耳を貸すような彼らではありませんでした。
両手を後ろ手に縛り、殴る、蹴る、爪と指先の間に針を刺す。気絶すると水をかける。そのうえ食わさず、寝ることも許さないという拷問が続きました。
「今の戦争は侵略戦争」とか、天皇批判を私に教えてくれた牧師には絶対迷惑をかけてはならないと思い、必死に頑張りました。
十数日して私は釈放されましたが、その後も憲兵の監視がつづきました。法隆寺の親元にも特高警察が来ていたそうです。
昭和20(1945)年に終戦の放送でホッとしましたが、翌16日にも法隆寺駅の線路沿いが米機グラマンの機銃掃射にあいました。長兄はニューギニアで、次兄も台湾沖で戦死しています。
私は、昭和23(1948)年、日本共産党に入党しましたが、朝鮮戦争の頃、アメリカ占領軍と日本政府によって発行停止になった新聞「赤旗」の後継紙を配布しているとして、自宅を捜索されたこともありました。
今も、ときとして痛む頸骨や左耳の難聴がつづいていますが、これは拷問名残です。
平和を愛する者、社会科学や哲学、宗教の本を読む者まで非国民として弾圧される恐ろしい時代を二度とくりかえさせてはなりません。かつて私たちが経験した戦争と暗黒政治の実際を、今の若い人たちに伝えることは、私たちの世代の重要な任務であると思います。
(奈良県支部ニュース・№4より転載)
後記"森川さんの戦後
敗戦後、斑鳩町に帰った森川さんは、戦前からの農民運動の活動家であった隣の大字の松本常七氏が指導する学習会に参加、隠匿物資摘発運動でも地域の青年と行動を共にしました。松本常七氏は1930年結成された大山郁夫の新労農党生駒支部の書記長に選出された人で、当時奈良県を代表して中央執行委員を務めたことのある農民活動家です。1946年4月の戦後初の総選挙では、日本共産
党公認として立候補した人です。
森川さんは1948年に日本共産党に入党、1952年ごろ、斑鳩町の教育委員選挙に共産党から立候補、55年、59年と町会議員に立候補したが落選。63年奈良県生駒郡斑鳩町で初めての目本共産党
町会議員として当選、以来4期16年務めました。在任中は、老人医療無料化の町条例採択に尽力し
ました。全国的な運動と相まって、この条例は後の老人保健法の先駆けとなりました。
国賠同盟奈良県支部が76年に結成され、その時からの国賠同盟員で、妻百合子さん(87歳)は国賠
同盟奈良県本部の会計監査を務めています。森川さんは2007年4月26目に81歳で死亡。奈良県生駒郡平群町にある「日本共産党員活動家の墓」に合葬されています。
(文責・奈艮県本部会長田辺実)
2011年2月15日 不屈 中央版 №440 6面