抵抗の群像
抵抗者として生き抜いた吉見春雄
静岡県の解放運動の「草分け」「生き字引」といわれた古見春雄は、1901(明治34)年、旧下級武士の家系の長男として生まれました。
文学少年から社会変革の道へ
旧制静岡中学に入るとロシア文学に惹かれ、大正デモクラシーのもと思想的にめざめていきました。卒業の年に米騒動に群衆の一人として数日参加したことが、思想的成長に大きく作用したようです。
ひとり上京すると、印刷工などをして働きながら様々な運動と接触し社会主義団体に出入りして、運動の本流を探り当てていきます。
1921年、東京外語大ロシア語科に進み、学内に社研グループを創立。そして、日本共産党の初代委員長となった堺利彦が主催する青年の思想団体ML会に入ると、学校にはほとんど行かず、翌年できた共産青年同盟の活動に専念していきました。
2年のときに外語大を「出席不良」の名目で退学させられますが、吉見は、これで自由に動き回れるとむしろ喜んだようです。共青から静岡県に派遣されて、県下各地の青年運動の組織化に、本格的に取り組んでいきます。
治安維持法で3回検挙
その後、全日本無産青年同盟本部の常任書記として東京で活動中に、1928年3・15事件で捕まります。未決のまま市ヶ谷、豊多摩の獄中で4年間を送り、病気で保釈出所すると、検挙を逃れて地下活動に入ります。
1933年、大阪でモップル(弾圧犠牲者救援の組織)再建の活動中に検挙、投獄。そのときに受けた酷い拷問を、吉見は後に次のように語っています。
「逆さ吊りで吊り下げられる。椅子に縛り付けられて剣道の竹刀や、木刀で滅茶苦茶に殴りつける。靴のまま背中や腿を蹴る。7月の暑い目盛り警察の道場で。体も参る。気を失うわけです。水をぶっ掛け放っておき、正気になるのを待って、また繰り返しをやる。」
それでも黙秘を貫き、4、5日間続けざまの拷問で、体がパンパンに腫れ、心臓がやられ、左脚は骨折し、前歯4本が砕かれ6本が抜け落ち、片耳は聴こえなくなり、嗅覚も失われてしまいます。
彼が後に復元した獄中の歌から。頑として一語も発せずと決意せり拷問部屋に入る一瞬護るべきもののあればか拷問も野郎呼ばはりも屈辱を感ぜず、身動きできないまま手錠・腰縄付きで天王寺慈恵病院に収容されますが、体の回復を待ち、警察の厳重な見張りのウラをかいて死体搬出門から脱走に成功します。
しかし、その間に組織的な一切の連絡は切れ、後で知ったのですが父親も亡くなっていました。
潜行中、1940年に静岡で3たび逮捕され、3・15の判決による3年の懲役に服します。
本当の勇気と戦闘性
終戦を迎えると吉見は直ちに大橋宏一郎らと共産党再建にとりくみ、静岡県委員会の成立後は県委員を務め、81歳でひとすじの生涯を終えます。
それにしても戦前の活動を知ると、あの物静かで温厚な彼のどこに、これはどの権力に対する抵抗精神と勇敢な行動力が隠されていたのかと驚くばかりです。
吉見は青年期、選んだ道の厳しさから、常に死を意識していたようですが、ただ恐れていたのではありません。自分の活動は人民解放をめざす当然の活動だ。それを罪とする治安維持法こそまちがっている。捕われてなるものか。スキあらは逃げてやる。そういう信念と勇気をもって生き抜き、粘り強く活動を続けていたのです。
(佐野ウララ=静岡県出身 吉見春雄二女)
不屈(毎月15日発行)№439 2011年1月15日