乳呑み児も獄中で
大島英夫、とよ夫妻の死
今年は戦前、治安維持法の犠牲となった福井市出身の大島英夫・とよ夫妻の没後80年にあたります。
英夫は、1900(明治三三)年、のちの福井中学(現藤島高校)の校長となった大島英助の長男として生れました。福井中学、金沢第四高等学校を経て東京帝国大学(現・東京大学)に入学すると、社会科学研究グループの「新人会」に参加、在学中に関東印刷出版労組の無給の書記を担って活動しました。新人会で学んだ理論を実践したのです。
残念ながら、大学は2年で中退します。英夫と労働組合活動を通じて出会い、戦後は日本共産党の中央委員をつとめた金子健太がこの理由を明かしています。英夫は、父からの仕送りを組合活動家の食費や交通費にあて、学費が払えなくなったのです。先天的な心臓病で、急いでは道も歩けないような病身なので、栄養も人並み以上にとる必要があったのです。それを自分の生活費をさいて組合員の活動を援助していたのです。
相次ぐ弾圧にも屈せず、英夫が属した日本労働組合評議会の指導で、日本労働運動史に残る共同印刷のストライキ(1926年)の支援にも参加しました。この闘いは、徳永直の小説『太陽のない街』でも描かれています。
英夫は27年、再建された日本共産党に入党しました。さらに、福井高等女学校を卒業して小学校の教師をしていた小鍛冶とよ、と結婚、長女の和を授かります。
しかし、暗黒政治が牙(きば)をむいたのは和が誕生してから6ヵ月余後の1928年3月
15日でした。全国の共産党員や支持者に対する一斉弾圧です。天皇制政府は、前年には山東出兵で公然と中国への侵略を開始しており、日本共産党などが「出兵に絶対反対」と世論に訴えてたたかっていたのを封じる目的があったのです。
日本労働組合評議会の書記になっていた英夫も特高警察に逮捕され、とよ、和も淀橋署に連行・留置されました。
とよ、和の親子と同じ留置所に入っていた太田操は手記で、当時の2人の様子を綴っています。
「とよさんが熱のある乳のみ児を抱いて入っていた。赤ん坊は泣きつづけていた。とよさんはなだめすかそうとして乳首を口に持ってゆくのだが、その日のショックで乳が止まってしまったというのだ」「保護室の私たちは、とっくから医者を呼ぶことを要求していたのだが、赤ん坊の泣き声が弱まり、ぐったりしはじめたころには、最早や時の刻みに耐えきれなくなっ
た。私たちは格子戸をゆすり、大きな声で、殺す気かと叫んだ」。その和は翌日亡くなりました。英夫も心臓病の悪化と結核感染で拘留処分停止となり出獄、入院しますが、すでに手遅れで、数日後の30年7月23日に絶命します。
享年30歳です。8月29日には、とよも亡くなります。この日は生きていれば3歳になる娘・和の誕生日の前日でした。現在大島家を継いでいる大島芳材氏(英夫の甥)は、「彼女の部屋は何もかもきれいに片付いていて、もしかしたら自死かも、と母が言ったのを私は覚えています。きっと覚悟ができていたものと想像しております」と語っています。いずれにせよ親
子3人とも治安維持法の犠牲者であったのは確かです。反戦平和と国民主権の旗を掲げ続けた英夫ら。その不屈の生涯は現代に生きる私たちへの強いメッセージとして生き続けています。
(福井県本部事務局長村井慶三写真・多磨霊園、大島家の墓)
2010年9月15日不屈 №435