共産青年同盟加入だけで
懲役2年の判決
安部マサさん
安部マサさんは1911(明治44)年7月11日、福島県白河の東南約22キロ、茨城県境に近い小さな城下町、磐城棚倉の造り酒屋に生まれました。
1928(昭和3)年に棚倉高女を卒業、翌年の秋に上京、姉夫婦のところに同居して、タイピスト学校やキリスト教系の英語の専門学校に通いました。向学心に燃えていた彼女は、それだけでは飽き足らず、明治大学受験の準備をひそかに始めていましたが、しかし、それに気がついた姉に「女が大学に行くなんて、とんでもない、やめなさい」と反対され、仕方なく彼女は三菱商事株式会社の本社に就職しました。1929(昭和4)年のことでした。三菱の会社は東京駅の真ん前、丸ビルの隣にありました。その脇は見渡すかぎりの原っぱで、当時「三菱が原」と呼んでいました。彼女の初任給は30円なので、好きな本も職場に出入りしていた本屋から自由に買うことができました。
勤めて1、2年すると、東北地方の大飢饉がおき、娘がどんどん身売りされていく…。どうしてこんなことが起こるのだろうと、彼女は考え込んでしまいました。そんな時、月刊雑誌『改造』に載った河上肇の「第二貧乏物語」に出あい、感銘を受けて左翼運動に関心をもちはじめました。
三菱の職場では、当時毎月何回か開く読書会があり、彼女も入会し、音楽や演劇のサークルにも参加し、山本安英さんが舞台で活躍していた築地小劇場にも行きました。劇場の入り口では、行くたびに横柄な巡査が立っていて、かならず持ち物検査をやるのです。劇場の中に入ると、そこにも巡査がいて、いきなり「演劇中止!」と叫んでやめさせてしまうのです。
彼女は、これが悔しくてなりませんでした。
職場には学習サークルもあり、彼女がとくに楽しかったのは、中条百合子さんが指導していた文学サークルでした。職場の仲間達にこれといった指導者はいませんでしたが、仲間は面白いように増え、やがて「こんな労働組合があるから、みんなで入ろうよ」ということになり、「全協一般使用人組合三菱商事分会」が結成されました。1930年の年でした。
しかし労働組合を結成して1年もたたないうちに弾圧され、10 人ほど捕まりましたが、結局その人たちは全員クビになりました。マサさんはただ1人の共産青年同盟員(彼女を共青に加入をすすめたのは長谷川寿子さん=戦前京浜工業地帯でオルグをして検挙された=であることが戦後になってわかりました)でしたが、マサさんはクビを切られて職を転々としていましたが、共青の活動はますますふえていました。野呂栄太郎の夫人塩沢富美子さんを自室にかくまったのもその頃でした。
ある日街頭での連絡をする時、待っていた相手の隣に並んでいたのが、以前逮捕された時に取り調べた野中という特高刑事だったのです。スパイの手引きだったのです。その場で2度目の逮捕となりました。
安部さんは取調べに対しては最初から反抗的でした。すると野中はいきりたって棒で力まかせに叩き、「お前みたいな国賊は叩っ殺したっていいんだぞ!」と叫んでいました。
そのうち警察は母親を呼び出し、泣き落としをかけてきました。それでも彼女は顔を上げ涙もぬぐわずに「お母さん、私はなにも悪いことはしていないのよ」と母に言いきるのでした。
結局、共青のメンバーであったというだけで2ヵ月近くの警察のたらい回しのあげく杉並警察署で起訴され、懲役2年執行猶予3年の判決をうけたのです。
(同盟東京・足立支部『治安維持法下の青春時代』より要約)
2010年4月15日不屈 №430