反戦教育の先駆者
倉岡愛穂先生の墓碑
京都の北端、京丹後市の奥、上宇川で農業をする倉岡家の兄弟三人は、昭和初年、うちそろって教師になり、次男の愛穂さんは、京都師範を卒業後、二七歳で、郷里の虎杖小学校校長に抜擢されましたが、学校が焼け健康も不調となり、神戸の御影小学校教師に転じました。教育熱心な愛穂さんは、教え子が戦争で命が奪われる事に疑問を持つ教師たちと、新興教育連盟神戸支部に参加して、活動するようになりました。教師体験も豊かな愛穂さんは、反戦教師のリーダーとなり、特高に逮捕されます。愛穂さんは、頑強に五ヵ月も黙秘をつらぬきます。業を煮やした御影署・署長自らが取り調べにのりだし取調べ中に亡くなりました。逮捕されて一五七日目の一九三七年四月九日のことです。
姫路師範を卒業し兵庫で、教師をしていた長兄と次弟のお二人は、御影署からの急報にかけつけると、愛穂さんは変わり果てた姿になっています。死因を隠す警察に愛穂さんの兄さんは、万感の愛惜をこめた手紙を友人たちにおくっています。
戦後山奥に隠していた愛穂さんの遺骨を宇川のせせらぎを見下ろす丘の墓地にうつし『倉岡愛穂大人』の墓碑を建て、碑の裏に『平和を愛し戦争に反対し未決一五七日取調べ中に殺さる』と刻み込みました。今年の四月九日、丹後一円の心ある人たちは反戦の先駆者倉岡愛穂さんを偲び慰霊祭を墓碑前で行いました。(岡本康)
2009年10月15日不屈№424(毎月15日発行)