草莽のコミュニスト
小栗喬太郎
小栗喬太郎の生家は愛知県半田市の材木問屋でしたが、喬太郎が生まれた一九〇六年頃は、家業が縮小して家庭的には恵まれず、祖母の手で育てられました。
地元の半田 中学では読書や文学を好み、友人と同人雑誌などを発行しています。
卒業後、北海道・十勝平野の牧場で働きますが、その頃トルストイ的な理想主義に感化され、徴兵による軍隊生活の体験から、軍国主義・天皇制に対する疑問を持ち社会主義への関心が芽生えます。
軍隊を除隊後は一時名古屋の会社に勤め、この頃から、知多地方の無産運動の草分けであり、印刷所を経営していた加藤今一郎やその三男の加藤力らを知り、大阪で共産党の非合法活動をしていた宮原末勇にアジトの斡旋するなど協力しています。
しかし喬太郎は、マルキシズムの系統的な学習の必要を痛感して自費でドイツに単身留学を決意します。一九三一年、演劇家佐々木孝丸の紹介でベルリン滞在の藤森成吉を訪ねます。
ベルリンでは藤森夫人の世話で下宿、ベルリン大学付属のドイツ語研究所に通い、反戦、反帝運動の会議や集会に参加。ドイツには千田是也、鈴木東民、藤森成吉ら多くの日本人が国崎定洞(衛生学者)の指導によってドイツ共産党に入党させており、喬太郎も三二年九月頃ドイツ共産党に入党。日本の満州侵略の抗議やナチスの影響からスポーツ団体を守る闘いなどで活動しています。当時の活動について喬太郎は「日本・中国よりももっと範囲を広げて、アジア人とドイツ人との国際的連帯の強化、アジア諸問題に対する研究会、在独朝鮮人、インド人、インドネシア人ら各民族によびかけて『革命的アジア人同盟』が結成された」(『ある自由人の生涯』佐藤明夫編39ページ)と記録しています。
三三年一月、ヒトラー内閣が成立し、ドイツでの活動はきわめて困難となり、彼は日本での活動を志して帰国。その翌月ドイツでは「国会放火事件」、三月「ドイツ共産党非合法」と、ナチスによる弾圧の嵐が吹き荒れていました。
帰国後の喬太郎は、翻訳の仕事をしながら実践活動に入ろうと東京本郷のアパートに住み、「ソビエト友の会」の仕事を手伝いながら日本反帝同盟の谷川巌と連絡をとります。しかし、当時の日本共産党は岩田義道、小林多喜二と幹部の虐殺、佐野・鍋山の転向声明など最も困難な時期で、連絡をとるのも極めて困難な時でした。彼は党の影響下にあった日本消費組合連合会と連絡を取り、合法舞台での活動として江東地区の工場や市電車庫などを回って野球チームをつくります。
その頃、喬太郎の従妹と結婚していた宮原末勇が特高に逮捕され危険の迫った喬太郎は地下活動に入ります。豊橋、名古屋、知多など転々としながら半田の自宅に戻った時、スイスからドイツ共産党の機関紙やコミンテルンの機関紙「ルンドシャウ」が届いていました。それを読んで反ファシズム人民戦線方針などを知り、勇気づけられながら翻訳活動を続けます。
一九三八年、ふたたび上京しますが組織はほとんど壊滅しており、傷心のまま半田へもどり結婚。しかし高まる軍靴の響きのなか、四〇年八月三十日早朝、突然、特高警察に自宅を襲われ治安維持法違反として逮捕。以後二年間の獄中生活、懲役二年執行猶予四年の判決で四二年六月保釈。出所後も喬太郎は「特別要視察人」として半田警察の監視下におかれました。
戦後、彼は半田市を中心に「新建設者同盟」を結成して、革新政党、労組、労働学校などの中心母体としての役割を果たしました。(「知多不屈の歴史」より要約)
2009年11月15日 不屈 №425 (毎月15日発行)