映画の窓/レッドクリフPartⅠ
戦争の愚かさに分け入る描写 今週は中国・香港の大作「レッドクリフ PartⅠ」が見もの。「三国志」でもっとも劇的な赤壁の戦いまでを描く。蜀の軍師・孔明が呉の将軍・周瑜に、呉蜀同盟で魏の曹操に対抗と提案。ジョン・ウー監督は白いハトを飛ばして戦争のおろかさに分け入っていく。
「60歳のラブレター」は3組のカップルの愛の迷走。60歳になって本当の愛情のあり方に気づいたおとなたちの生きていく希望を描く。「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」は、考古学者が長年行方不明の父と再会、父子ともにナチスとたたかいながら秘宝を入手しようとする活劇。「DEATH NOTE デスノート」とは名前を書くだけで死ぬという死神ノートのこと。犯罪のない世界を願う学生と連続殺人を追う探偵とが正義をめぐって―。
NHK衛星は「L.A.コンフィデンシャル」が1950年代ロサンゼルス市警内部腐敗をあばいていく強烈な告発作品。「影なき男」は黒人俳優シドニー・ポワチエが10年ぶりに復帰しての犯人追及劇。「翼よ!あれが巴里の灯だ」は大西洋横断初飛行に成功した青年飛行家の心理状況までとらえた。「リクルート」はCIAの新人発掘、スパイ育成の内情に迫った。
(石子 順 評論家)
( 2011年01月14日「しんぶん赤旗」)
もがく貧困世代の「蟹工船」ブーム
「これって、今とまるで同じ……」。作家の雨宮処凛(かりん)さん(33)は昨年12月17日夜、プロレタリア文学作家、小林多喜二(1903~33年)の代表作「蟹工船(かにこうせん)」を初めて読み、涙を落とした。内容が、ワーキングプアの現状や自身が関係するフリーター労働運動と二重写しに見えたからだ。
半年後、雨宮さんの涙は奔流となった。新潮文庫の「蟹工船・党生活者」は今年、例年の47倍を超す23万7000部を増刷し、オリコンの文庫ランキング(5月19~25日)で11位と大健闘している。この動き、雨宮さんとほぼ同い年の私には、旧来の左翼の思想や運動を知らない世代が、時代の羅針盤を求めてもがく現状の反映に思える。
新潮社によると、「蟹工船」の新しい読者層は19~29歳が30%、30~49歳が45%。推計で5割強が30代以下だ。中でも、20代半ばから30代半ばは、平成不況のただ中で社会に出た世代である。派遣労働者などのワーキングプアが多い。いわゆる「ネット右翼」も、この世代が中心とされる。
「蟹工船」は1929年に書かれた作品だ。カムチャツカ沖でカニを捕り缶詰に加工する船の労働者が、過酷な労働条件に怒り、立ち上がる話である。雨宮さんは「蟹工船」を読んだ翌日、作家の高橋源一郎さん(57)と対談した。雨宮さんが語った感想に高橋さんも共感。この対談を今年1月9日、毎日新聞朝刊文化面(東京本社版)に掲載したのがきっかけになり、ブームが始まった。
雨宮さんは「今、『蟹工船』のように露骨な奴隷労働はないが、同じように逃げられない状況なら確かにある」と話す。雨宮さんによれば、派遣労働の現場では寮の備品にいちいちレンタル料を取られ、まともに給料が残らない例もある。寮の合鍵を使って、労働者が逃げないか部屋をチェックする会社もある。過酷な労働を「蟹工」と表現する若者もいるという。
フリーライターの赤木智弘さん(32)は「『蟹工船』の世界は、結婚している労働者がいるなど、今のフリーターより恵まれて見える面もある」とさえ言う。
それにしても、なぜ80年も前の小説が読まれるのか。批評家の大澤信亮(のぶあき)さん(32)は「貧困の現実に迫る言葉を持つ小説が『蟹工船』しかなかったから」と解説する。大澤さんによれば、戦後、労働や貧困を主題とした文学作品はほとんどなく、評論でも貧困は現実の「外の問題」としてしか扱われなかった。「貧困をとらえる言葉がなかったからこそ、若者の貧困問題は数年前まで『自己責任』のひと言で片づけられてきたのでは」(大澤さん)
興味深いのは、左翼文学の古典を読んでいるのが、小泉純一郎元首相の靖国参拝に熱狂したのと同じ世代でもあることだ。04年に東京で始まったフリーターらのメーデーに、かつて右翼団体にいた雨宮さんも加わり、今年は全国14都市へ広がった。年長者の中には、この世代が右から左へ極端に流れたと危惧(きぐ)する人もいるようだ。だが、この見方には、同じ世代の人間として違和感がある。
赤木さんは「私たちは、共感できるなら右翼でも左翼でもいいと思っている」と話す。そもそもこの世代は直接の左翼体験が、まずない。大半は浅間山荘事件(72年)の後に生まれ、自民党と社会党の「55年体制」の記憶すら怪しい人もいる。マルクスなどの思想もほとんど知らない。
一回り年上の苅部直(かるべ・ただし)・東京大教授(43)も「彼らは、上の世代が自分たちの抑圧感を理解せずに、きれい事を並べることへの反感をイデオロギーに結びつけてきた。その意味で、前に小林よしのり氏の漫画『戦争論』がはやったことと『蟹工船』のブームは近い」と見る。ただ、今の「左傾化」は「実際の悲惨な生活がある点が、歴史教科書問題の時と違う」と評価する。
では、「蟹工船」ブームが象徴する動きは、どこへ行き着くのか。苅部教授は「雨宮さんらの論者は、世代意識が強すぎたり、左翼的表現を嫌う人が多い上の世代の心情を知らない面があるように見える」と危うさも指摘する。そのうえで、「ホームレスや障害者など他の問題との接点も考えているようだ。雇用問題で、より普遍的な提言ができれば、他の世代にも味方が広がるだろう。彼らには問題提起をする力があると思う」と応援する。
苅部教授に同感だ。私も引き続き雨宮さんらの議論に注目し、紹介していきたい。貧困や雇用を社会全体で考えることは、どの世代にも有益なはずだ。一部が「団塊ジュニア」と重なり人数も多いこの世代の動向は、今後の日本の行方に大きく影響するだろうから。
記者の目:=鈴木英生(学芸部)
毎日新聞 2008年6月3日 0時03分
史跡・和歌山城御橋
廊下の完成に思う 五月、メーデーの際、時間を取りほぼ完成した「御橋廊下」を渡った。
和歌山城二之丸・西之丸を結ぶめずらしい斜型廊下である。古文書から「御橋廊下」の存在は判明していましたが、平成一一年から調査が開始され、今年三月に復元されたものです。
創建年代は不明ですが、資料によれば西之丸は紀州藩・初代藩主徳川頼宣の隠居所として建造され、茶室を構え、紅葉渓庭園と二之丸(当時は大奥)を結ぶ「御橋」であったものと思われる史蹟で、古文書により明治初期までは架かっていたことが確認されています。平成一三年に「復元専門委員会」が結成され、総工費二億一千万円を投じ復元されたものです。
「御橋」は傾斜のある形状で、全国的にもめずらしい形状となっています。廊下の床は板を梁間方向に並べ鋸歯状に重ねられ、滑り止めの役割を果しています。柱や梁には日本古来の伝統様式で「柿渋」が塗られ、完成間近な現在、微かな欅の香りと庭園のコントラストは時空を忘れ気分を和らげるものです。
私が市議会議員当時の建設であり、発掘調査も見学させていただきましたが、建設計画等を聞いた際、二之丸跡地に欅の巨木があり、廃棄されることを知りました。建設計画書を大先輩の保守系市議会議員・O氏に見せ、「巨木には魂が宿るという。二之丸のどこかに移植したいのだが………」と呼びかけ、さっそく「管理事務所」を訪れ移植要請をし、別場所へ移植されました。移植された古木・欅は訪れた五月には四方八方の枝に緑あざやかに新芽が芽吹いていました。
しかし、二之丸跡地の復元された城壁部分が旧来の石塊は風化し使用できず、新しい「砂岩」で改築されたため、残念ながらコンクリートを吹き付けたような感じがして「史跡」の趣を台無しにしています。山石を使用したとしても城壁が苔むすまでには数年の年月を必要とするでしょう。
四季を問わず、和歌山城・史跡「御橋廊下」を是非ご覧になっていただき、歴史散策を楽しんでいただきたいと思います。

(「御橋廊下」の図は、『史跡和歌山城御橋廊下』(和歌山城管理事務所発行)より)
(和歌山北支部 W・T広)
2006.6.15 不屈 和歌山県版 178号
司馬遼太郎の歴史文学・ 史観などについて (3)三、当時の反戦運動や作家が描く日露戦争
鎖国をやめ、急速に近代国家になる必要のあった日本。他国の迷惑のうえに、ロシアとの戦いに勝って列強の植民地支配をまぬがれた。と司馬遼太郎は主張します。現代史のなかで日露戦争をどうみるかが一つの重要なポイントになるように思える。
日露戦争に勝利したことにより社会全体が熱狂し勝利に酔います。しかし、日露戦争では十万一千人戦死、軍隊は一〇〇万をこえ、その軍備調達に海外から借金し重税を課して多くの国民の生活は破壊されました。
少数であったとはいえ最初から日露戦争に真正面から反対した人々もいました。
社会主義的立場、基督教の立場からは、幸徳秋水、内村鑑三、北村透谷らは真っ正面から日露戦争に反対しています。
和歌山県では和歌山中学の学生・加藤一夫、医師の大石誠之助がいます。(和大の後藤先生の「日露戦争と非戦運動」)
石川啄木が当初日露戦争を賛美しますが、しかし、その後の現実から急速に批判する立場に変わります。
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司馬遼太郎の歴史文学・ 史観などについて (2)二 「坂の上の雲」への新船氏の批判要旨
日露戦争について司馬遼太郎の結論は、「日露戦争は世界史的な帝国主義の一現象であったことは間違いない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、おいつめられた者が、生きる力の限りのものをふりしぼった防衛戦争であった。一九世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやなら産業を興して軍事力を持ち、帝国主義の仲間入りするか、その二通りの道しかなかった。後世の人が幻想して侵さず、侵されず、人類の平和のみを国是とする国こそ、当時のあるべき姿として、……その基準を当時の国家と国際社会に割り込ませて国家の正邪を決めることは、歴史は粘土細工の粘土にすぎなくなる。……日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、すでにその時から他国の(朝鮮)迷惑のうえにおいて、おのれの国の自立を保たなければならなかった。」というのが司馬遼太郎の出した結論です。
では、何故司馬遼太郎がこうした結論に至ったのか、それは個人の美質をとおして歴史をみるからだと新船氏は指摘しています。(以下、新船氏の考察)
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T・S次 遺構
靴の音
病む者の弱さにあらね再びか軍備もつとふ声にたじろぐ
敗戦のいたではいまも癒えなくにさかしき人ら武装論言ふ
さる戦友(とも)の生き死にさへも知らざるにまたのいくさの声起こりゐつ
戦線回顧
轟ける砲声あびし黙々と輜重隊列のなか歩みつつ
夜に入りてバタアン戦野の兵なべて死に絶へし如きしじまをゆきぬ
(『不屈』「『不屈』日高」版 136号06・2)