顕彰碑探訪
歌人で労農運動の指導者 松岡辰雄
松岡辰雄は一九〇四年青森市で父豊作母たまの次男として誕生。二〇年高等三年卒業後国鉄に就職。その頃から文学に興味を抱き始める十八歳の時、沖仲仕の親方であった父が破傷風で急死。二十一歳の時車掌勤務中機関車の火の粉が左目に入り、青森駅改札係となる。二五年の二十二歳の時、全日本鉄道従業員組合青森支部を結成し書記長となる。同時に青森合同労働組合結成に参加。松岡は父が怪我で死んだ時、自分が勤務中怪我の時も何の補償もないのに疑問を感じていた。その後当局は組合幹部三名を解雇し警察と連絡をとり、不穏分子調査を始める。組合は二百人集まって大会を開き、松岡は首切り反対の報告をする。二十四歳であった。集会後、青森駅長福富孝矢から不当馘首される。二八年普通選挙第一回総選挙の演説会を聞くが警察に解散され、同志数人と検挙される。二十七歳の時、治安維持法違反で一・二審懲役五年の判決、上告棄却され青森刑務所に盟友大沢、堀江等と服役させられるが四年目病気仮釈放される。三六年松岡三十三歳で中村いそと結婚。三八年長女四一年次女が生まれる。太平洋戦争勃発。翌年病気再発し喀血、腸チフスの疑いで入院。以後闘病生活。この間地方誌「黎明」「座標」に毎月短歌を発表し、三八年改造社刊「新万葉集」に獄中歌五首掲載される。五五年八月二十三日五十三歳で死去。七一年八月の十七回忌に青森浅虫に「餓うるともこの信念にそむかざれ今あかあかと燃ゆる夕空」の歌碑を建立する。
(同盟青森県本部野村昭俊)
2008年3月15日不屈(毎月15日発行)№405