五〇名以上もいた「抵抗の群像」と河野通孝
『抵抗の群像』に宮崎は「一人もいない、ほんとう?」と、問われショックを受けた。戦前に命がけで抵抗した先輩諸氏に申し訳ない、それだけではすまされない。日本の民主主義と戦争の歴史をどう語り継ぐかという問題と反省しこの一文を書いた。私が名前を知るだけでも県外での活動家を含めると五〇名を超えている。東京・中央大で「社会科学研究会」に参加していた津曲武治が帰郷し、『新興教育』読者の小学校教員山元都星雄、横山巌、小山光ら三名と知り合い、一九三一(昭和六)年七月十二日、「日南新興教育研究会」を発足させた。九州初の「新興教育研究会」の結成だった。それから八ヵ月後の三二年三月二〇日に「教育労働者組合南九州支部」を結成している。翌日の三月二一日には一二名が治安維持法違反で逮捕され、二九名が関係者として検挙され、一〇名の教師は非国民・国賊と非難されて県外、中国や朝鮮に追われた。この大弾圧は戦後五二年を経るまで埋もれ知られていなかった。一九九七年治安維持法国賠同盟の活動で県下最大の「反戦抵抗の歴史」が明らかにされた。それに直接関連していない河野通孝は一九〇一(明治三四)年三月、東臼杵郡北方村(現延岡市)の槙峰三菱社(鉱山・従業員六六八名)のある村に生まれた。亜硫酸ガスで山は一木一草も生えない村、父は同鉱山工夫、母も同坑内労働者で長屋住い。小学校を終え叔父を頼って上京、開成中学、青山学院英文科に学び、東京で代用教員をする一方、無産青年同盟に加盟し特高に監視されていた。一九四一(昭和一六)年中等教員検定試験合格、監視が解かれ宮崎に帰郷、宮崎商業学校教諭に就職した。敗戦までの自由のない毎日の憂鬱から解放されるとすぐ戦前の体験を生かして活動を開始し、『全日本教員組合宮崎県支部設立趣意書』を作成。その裏面には「行動綱領案」や「規約案」「連絡先・宮崎市西丸山町河野通孝」と記載し、教員組合結成の先頭に立った。宮崎商業学校には河野以外に石橋基がおり、二人で相談しながら労組結成と宮崎県で初めて開かれた日本共産党再建演説会(昭和二一年一月)にとりくみ、県党創立に参加、県党建設に心血を注いだ。それから四年後の一九四九(昭和二四)年一〇月レッドパージされたが屈することなく、病弱な奥さんと四人の子どもを抱え生活苦と闘いながら、平和運動や松川事件など救援運動をつづけた。一九五〇年代の左翼冒険主義の誤りを克服し、党の団結と統一を前進する闘いでも河野通孝は教条主義、官僚主義を批判し、実践でも県教育委員選挙、参院地方区選挙に立候補、民衆との結びつきを強める活動の先頭に立っていた。こうした党の統一と団結、民主的党風の確立をすすめ、宮崎地区委員長に選ばれ、党の新たな前進をすすめた。そのとき「地区党の統一に関して」という論文を発表している。また知識人河野通孝は学習を重視し自発性、自覚を基礎にした活動をいつも強調し、「五〇年問題」、スパイ事件もあったが、戦前・戦時下の教訓を活かし、県庁所在地で共産党市議席空白を克服、さらに県議席を持つ土台をつくり、七五歳の生涯を終えるまで革命家の名誉を貫いた宮崎県の貴重な一人であった。(同盟宮崎県本部・児玉武夫、敬称略)
2008年3月15日 不屈 (毎月15日発行) №405