抵抗の群像
弁護士布施辰治の朝鮮と治安維持法」
日本国民救援会宮城県本部会長 庄司捷彦
弁護士布施辰冶(一八八〇〜一九五三)ほどに、治安維持法と正面から対峙し、格闘した弁護士はいない。二度の下獄と勾留は通算千日を越える。
自由法曹団結成等に参加
辰治は宮城県の農村(牡鹿郡蛇田村・現石巻市)に生まれ、一八歳で上京。明治法律学校(現明治大学)で学び、一九〇二年法曹資格を得る。
辰治は自由法曹団と赤色救援会(現日本国民救援会)の結成に参加したことで著名だが、彼の活動は多面的である。ここでは二つの側面を記す。
先ず植民地との関わり。辰治と朝鮮との最初の関わりは一九一九年二月八日の「二八独立宣言事件」。在日留学生が宣言を決議して宣言文を発行・出版法違反とされた。辰治は、一審有罪の後の控訴審を担当、無罪を得る。辰治は一九二三年「日韓の併合は・・侵略であつた。私は・・朝鮮民衆の解放運動に特段の注意と努力を献じる」と記述している。この裁判の途上に朝鮮本国では「三・一万歳運動」が起きた。この年九月の関東大震災の直後、官憲は朝鮮人虐殺を惹き起こしたが、これを厳しく糾弾した辰治は一九二三年(義烈団事
件弁護)、一九二六年(宮三面農民運動支援)、一九二七年(朝鮮共産党事件弁護)、渡朝している。
終戦後「朝鮮憲法草案」を起草している辰治だが、この遺品からも朝鮮への深い熱情を知ることができる。
辰治の受難は、小林多喜二が小説にした三・一五事件に端を発している。
三・一五弾圧に関わる
辰冶はこの事件の弁護に立つが、大阪の法廷での発言が「懲戒にあたる」として裁判を提起された(一九二九年A事件)。翌三〇年には言論活動で新聞紙法違反で起訴される(B事件)。一九三二年A事件判決(除名判決)で弁護士資格を奪われる。翠二三年B事件で禁固三月の判決確定豊多摩刑務所に下獄(四〜七月)。出獄直後の九月、労農弁護団への治安維持法での弾圧があり、辰治も検挙された(C事件)。翌三四年起訴、保釈は三五年三月。身柄拘束は一年半。この間に一時、皇太子誕生恩赦で弁護士資格を回復するが、一九三九年五月C事件で懲役二年の判決確定、六月二六日下獄。出獄は皇紀二六〇〇年の恩赦での四〇年七月。在監獄四〇〇日。三男杜生は治安維持法での弾圧を受け、四四年獄死している。
辰治の資格回復は戦後のこと。戦後の講演で辰治は、弾圧された共産党の歴史に触れて「黙秘での闘い」を称えているが、法廷の内外で言論の自由を求めて闘い抜いた辰治の生き方にこそ、現憲法を準備した先人の歩みの一つがある。「押しつけ憲法論」は「自国の先人の足跡に学ぼうとしない自虐史観」というべきである。
また、朝鮮半島を経由して大陸文化が大和に渡来したことは歴史的事実である。朝鮮を愛した辰治の足跡にこそ、日朝友好の原点がある。
故郷石巻には巨大な辰治顕彰碑がある。先日、韓国羅州市で「羅州宮三面抗日農民運動記念碑」と刻む石碑を見た。そこに「日本人弁護士布施辰治氏の文字があった。いま、「辰治の生涯を描く映画」が制作中であり、年内の完成を目指している。辰治からどんなメッセージが届くのだろうか。
◆訂正とお詫び
前号の「抵抗の群像」ー「聳ゆるマスト…」文中、二段目三行目「吉部村長」は「木部村長」。四段三行目「彼の義妹」は「父違いの妹」に訂正します。
2008年6月15日不屈(毎月15日発行)№408