和歌山市の戦後史
⑥ 戦後インフレと食糧難
和歌山西支部 S ・ Y
日本帝国陸海軍の武装解除と解体六九八万人。六六〇万人の民族大移動《引揚げ・復員》・日本軍の死者三一〇万人。日本は中国・フィリピン、東南アジア諸国で、いかに大きな戦争をしてきたのか。二〇〇〇万人の占領地住民の虐殺と多くの事実を戦後になって知ってきた。
戦後も日本国民、私たち和歌山市民も耐乏生活が四年以上も続いた。昭和二〇年九月分の主食配給は米一〇日、麦・小麦が二〇日。一一月、一二月には、米麦の代わりの代用食として一ヶ月一五日分のさつま芋が配給された、と『和歌山新聞』に掲載されている。県民一人当たり米消費量は約三合であったのに対して、戦後の食糧難は大変なものであった。
昭和二二年では雑穀・甘藷類を合算しても一・九合にしかならなかった。昭和二一年の平均サラリーマンの月給は、わずか三五〇円前後で、物価だけは間断なく急上昇を続けた。
和歌山市でも、東和歌山駅(現JR和歌山駅)の西口(現・美園商店街付近)の闇市に行けば、どんな物資も手に入ったが、市民の平均収入では、食べて、生きていくだけが、精一杯であった。和歌山市で主食の配給に一世帯一缶のパイン缶とか、肥料用の豆粕が、米麦の代わりの代用食として配給された。消化の悪い豆粕を金づちで叩き割って湯で沸かして食べたのを覚えている。
昭和二一年五月一二日~一九日、皇居前広場の食糧メーデーには二五万人が参加した。一枚のプラカードには、「 詔書 国体はゴジされたぞ、朕はタラフク食ってるぞ。ナンジ人民飢えて死ね」とあった。この一枚は不敬罪騒ぎとなったが、この不敬罪は二二年一一月に廃止となった。
当時、東和歌山駅や和歌山市駅で切符を買って汽車に乗るのが大変で、汽車の客車の窓から大きなリュックを抱えた人々でごった返し、窓から乗るのが普通であった。
焼け残った母の着物や、父の背広などをイモや麦などと農家で交換してもらった。昭和二二年一月一八日全官公労「2・1ゼネスト宣言」。GHQ命令で2・1ゼネストが中止命令を受け、伊井弥四郎委員長が「労働者・農民万歳、われわれは団結しなければならない」。「一歩後退、二歩前進」のラジオの放送は今でも耳に残っている。
二一年一月、旧一〇円紙幣に証紙を貼り(写真上)、戦後初の一〇円新円が、一月二五日(月)旧一〇円と交換が開始された。新円は米国という字に似ていて、左隅の (¥10) は、アメリカのMPが国民を監視しているように見えた(写真下)。インフレは簡単に止まらなかった。
(つづく)
不屈 和歌山県版193号 2007年9月15日