節を曲げず不屈にたたかった 村岡貞秋
同盟佐賀県本部編「佐賀県民の現代社会運動概史」より
村岡に対して特高が拷問を加えたかどうかは定かではないが、彼は特高や検事の取調べではもちろん、予審でも黙秘をつらぬいたことは確かである。一九二九(昭和四)年十二月十五日付「佐賀新聞」は、「本月十三日午後五時予審終結、治安維持法違反により有罪が決定、(佐賀地裁の)公判に回された。
「村岡は中学二年ごろから社会科学にかぶれ、昭和二年佐賀高等学校文科に入学し共産党の主張に共鳴、自らリーダーとなって佐賀県の同志を糾合、同主義の運動に没頭し、杵島炭鉱夫七名を説き闘士たるべく勧誘していた」と伝えている。
結局、村岡は「目的遂行」の罪名で公判に付されることとなり、翌月三月十一日の第二回公判で、早くも判決言い渡しがおこなわれ、懲役三年(未決二百日通算)の実刑判決とされた。
村岡貞秋は、一九〇七(明治40)年杵島郡若木村川古(現在武雄市若木町川古)でツバキ油の製造卸業を営み、地主でもあった村岡小一、ヨシ夫妻の三男として生まれた。長女は県立武雄高等女学校に、長男、次男は佐賀師範学校に進学している。末っ子だった彼も、若木村の尋常小学校から佐賀中学校を経て、一九二七(昭和2)年四月、佐賀高等学校文科乙類に入学した。
貞秋の同級生や従兄弟たちは「ユーモラスあふれる話をしてはクラスのみんなを大笑いさせていた」「豪放磊落な性格でしっかりしたからだつき。しかし親戚みんなが貞秋さんのことは今でもタブーとされ、わからないままできた」。村岡は佐賀中入学後、市内の実姉ツナの嫁ぎ先に下宿して通学していた。ツナの子息は当時のことを次のように語っている。「貞秋さんは佐中五年にあがる前ころから家に帰ってこない日が次第に増えてきた。貞秋さんは『歴史の研究会で友達のところで勉強しているのだから』心配しないでよい」と言っていた。
村岡は佐賀高に合格後すぐに姉の家から転居し社研の非公然活動に参加した。すでに日本共産党の組織と結びつきを持って活動していたのである。ちょうど三・一五大弾圧事件を契機に非公然の党活動に入ったのである。
三・一五、四・一六と息つく間もない大弾圧で、九州の共産党と共産青年同盟の組織は壊滅状態とされ、県内ただ一人、治安維持法違反の被告人であった村岡の一年十一ヶ月の長期にわたる獄中での闘争は、想像を絶する苦難に満ちたものであったに違いない。しかし彼は弱冠二十二歳の若さで特高の残虐な追及や天皇制権力からのあらゆる脅迫や懐柔策に屈することなく、黙秘を貫き、節を曲げずにたたかいぬいた。
この不屈の闘いを支えたものは、中学時代から身につけた科学的社会主義の社会発展への不動の確信であり、人民大衆と党への強固な信頼であった。
村岡は懲役三年の刑期満了後の一九三二(昭和7)年夏ようやく釈放されたが、若木村で彼を待ち受けていたのは武雄署特高係と川古駐在巡査による監視下の生活であった。親から貞秋を監視するようにと言われて出入りしていた従弟に対しても、特高は治安維持法違反容疑で逮捕するしまつであった。村岡は親戚にまで手を出す特高警察の弾圧と監視下の生活を断ち
切るため、出獄の年の末ごろ大連に向かった。特高の監視はその上陸地点まで続いた。
しかし一九三八(昭和13)年十一月三日、上海へ向かって移動中の列車の中で、入れ替えのバックをしてきた機関車にはねられ、村岡は三十三歳の短い生涯を閉じた。(抄録・「不屈」編集部)