一月一九日の和歌山市の平和会館での〝村瀬清次没後七七年 関連資料〟を中心にした、藤沢弘太郎県本部会長の報告と懇談のあと,参列した方と近くの喫茶店で感動を共にすることができました。
当日参列二〇名のうち、唯ひとりの同盟外の人で、昨年の北川宗藏に学び偲ぶ会に参加された方でした。
清次が殺された翌年の一九三〇年生まれですが、その頃の住まいが市内の西河岸町でしたので、小学校は湊南(現・雄湊)でした。
下図の清次が山中の凶刃に刺され血まみれになりながら,同志の井口武雄宅を目指したが、力尽き絶命した道を毎日通ったのでした。この事実を図面を見るまで、知らなかったとの話でした。
その場所=和歌山市立商業学校の裏坂は (和市商がそこに移転してきたのは一九三七年で、大谷氏の記憶違いと思う)、実は私が夜間部(現定時制)に通学していたのです。.講堂が未建設で全校の行事は総て湊南小学校の講堂を借りていました.ひとりは昼間に、ひとりは夜間に同じ道を通学していたのでした。奇遇に大いに話がはずみましたが、「西長町の魚屋(井口武雄)は〝赤〟だ」と大人たちが話してあっているのを聞かれたそうでした。
村瀬清次のことは、お互いに何一つ知らなかったが、私達の幼い頃から、治安維持法の悪影響が周辺にあふれていて、真実をやみにかくした、ひたすらに国民を、侵略戦争においこんでだ歴史を確かめる一日でした。
和歌山西支部 (U・T)