抵抗の群像
反戦平和の詩人 槙村浩
溝 渕 政 子
一九三一(昭和六)年、「満州事変」で国際法を無視した中国侵略戦争を開始した日本は、国内でも軍人の横暴を許す暗黒政治を出現させました。一九三二年、犬養首相が暗殺され、その年の秋には関東軍の実質支配する「満州国」が樹立されました。
この時代の風潮の本質、天皇制国家の侵略性をいち早く見抜いた吉田豊道は十九歳の時、槙村浩のペンネームを使って反戦詩「生ける銃架」を「大衆の友」創刊号に発表し、続いて長詩「間島パルチザンの歌」を「プロレタリア文学」臨時増刊号に発表し話題を呼びました。
現在、高知市の城西公園にはその詩の冒頭部分を刻んだ詩碑が建っています。
間島パルチザンの歌
思い出はおれを故郷へ運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉松の林を越え
蘆の根の黒く凍る沼のかなた
赭ちゃけた地肌に黝ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ
雪解けの小径を踏んでチゲを負い、枯葉を集めに姉と登った裏山の楢林よ
山番に追はれて石ころ道を駆け下りるふたりの肩に
背負縄はいかにきびしく食い入ったか
ひびわれたふたりの足に吹く風はいかに血ごりを凍わせたか
……………
槙村浩ら共産同盟の仲間は、高知市朝倉の歩兵第四十四連隊の兵営に「兵士よ敵をまちがえるな」と書いた反戦ビラをまいたり決死の反戦活動を展開しました。当時反戦活動など国家の方針に逆らう活動をすることは、国体を否定する者として厳しく追及され、治安維持法違反の名で片端から逮捕されました。
槙村浩も一九三二年四月二十一日、自宅のあった高知市ひろめ屋敷で逮捕され、高岡署に連行され、ここでひどい拷問を受け、起訴され高知刑務所に収監されました。
しかし、この時槙村の体は監獄病といわれた拘禁性躁うつ症、食道狭窄症にかかり重症におちいっていました。
この時代が現在の私たちから見ていかに厳しい時代であったか想像を絶するものがあります。有名な作家小林多喜二が一九三三年東京築地署で虐殺され、高知県室戸市出身の労働運動指導者石建虎兎栄も、弱冠十九歳の筒井泉吉も高知市水上署で、須崎市出身の黒原善太郎も大篠署で虐殺されました。
このようなあらゆる自由を奪った暗黒の時代に槙村浩が非転向を貫き志を守り通したことは、わたくしたち戦争のない社会をめざす者にとっては光の源泉であり続けています。
槙村浩は三年余の獄中生活を終え出所しましたが、一九三八年九月三日、わずか二十六歳で亡くなりました。(「槙村浩没後六十五周年記念誌」から)
槙村浩(本名吉田豊道)略年譜
一九一二年六月一日高知市廿代町に生まれる。
一九二三年土佐中学校本科一年に小学四年終了で入学、神童といわれた。
一九二八年海南中学で軍事教練反対の運動を組織する。
一九三二年「生ける銃架」「間島パルチザンの歌」発表。四月検挙され、非転向のため三年の刑に処せられる。
一九三五年六月拘置刑務所より出獄。
一九三六年十二月「人民戦線」事件で検挙される。
一九三七年一月拷問のため重症釈放。
一九三八年九月三日病院にて死亡。
(同盟中央本部副会長)
2007年9月15日不屈(毎月15日発行)№399