世界遺産に登録された紀伊山地が大きく浮上、信仰、自然保護…、紀伊山地を語る人々のなかに、先日放映されたNHKテレビで中辺路町野中在住の〝山の作家〟宇江敏勝さんのインタビューをききました。山に生きてきた人のぬくもりを感じる語りでした。
遠いむかし?私も選挙などで県内を廻りましたが、なかでも中辺路は様々な想い出のある処です。
そこで、これから熊野古道を訪れる人びとに、ぜひ辿ってほしい処があるのです。
中辺路の古道、苔むした牛馬童子の石像のある道を下っていくと、眼下に中辺路町近露の集落が一望できます。その中央にかかる橋の左のこんもりした森―その森の中央に「近露王子之跡」としるされた大きな石碑があります。その石碑の左下の凹んだところに、風雨にさらされて見えにくくなっていますが、「横矢球男謹書」と彫られています。
碑の右側の立て札がその歴史を物語っています。
戦時中、大本教の出口王仁三郎氏が諸国巡りの途次に揮毫した『近露王子之跡』。この出口氏が治安維持法違反と天皇に対する「不敬罪」で逮捕、投獄されたため、政府は出口氏に関するものを破壊、それは中辺路の碑にもおよびました。この時、村長をしていた横矢球男氏が、「出口氏が書いたものを自分が写しとったもの」と主張、破壊を免れ、「出口王仁三郎謹書」を削って「横矢球男謹書」に掘り直した―と記されています。国家神道以外のすべての宗教を弾圧、天皇主権、神の国を強制した「遺産」として保存,語りつぐことが大切ではないでしょうか。
また、この森の横を流れる小川が道路の下を通って、貴重な用水路となっています。この用水路――ずい道について「明治四十三年春、久保円五郎(六三才)ちびけたノミ一丁で巨岩に挑むこと半歳、ついに延長五〇㍍のトンネルを貫通した.。一介の水守夫が郷土によせた限りなき愛情と土と水にかけた不屈の執念を想起してこの先賢の偉徳を銘記しよう」と刻まれた頌徳碑が、道を隔てた橋のたもとに建てられています。
「蟻の熊野詣で」のその後の、語られていない歴史のほりおこしをすすめようではありませんか。 (F・K)
(絵手紙H.N)