シベリアで多喜二にあった
1945年夏から秋にかけて、拉致同様のかたちで、当時のソ連に抑留され、強制労働を強いられていた。
私たち兵士は、多くの戦友が寒さと、異なった食料に耐えられず、命を落とした亡骸を葬りつつ、ダモイ東京(帰国)を夢見て、気候にも食料にも慣れはじめた頃、思いもよらぬ母国の文化にふれる機会が与えられた。劇団カチューシャ(抑留兵士の演劇関係者の組織)の演劇である。
小林多喜二の「蟹工船」が上演され、望郷の念にかられていた兵士たちは、瞬きもせず、舞台に魅入り興奮し惜しみない拍手をおくった。
クライマックスで、軍旗を翻し、あご紐をかけ銃剣を付けた水兵たちがタラップを駆け上がり、監督や雑夫長と対立している漁夫、火夫、水夫に、銃口に、目をを凝らした。
ストライキの中心人物は、次々と連行される。
“暗 転” 船底からの声・・・・・・・・・
「帝国軍艦だなんて、大きなこといったって大金持ちの手先でねえか、国民の味方?おかしいや、くそ食らえだ!」
「俺たちには、おれたちしか味方がねえんだ」
「・・・・間違っていた。ああやって、9人なら9人という人間を表に出すんでなかった。」
「おれたちの急所はここだここだとしらせてやっているようなものではないか。」
「俺たち全部が全部一緒になったというふうにやらなければならなかったのだ」
「そうだな」
「そうだよ。今度こそ、このまま仕事してたんじゃ、俺たち本当に殺される。」
「不思議に誰だって、ビクビクしていないな、皆、ちくしょうツ!って気でいる。」
「本当のこといえばそんな先の成算なんてどうでもいいんだ。・・・死ぬか生きるかだからな。」
「ん、もう一回だ!」
“暗 転”
彼らは、立ち上がった。・・・・・もう一度!
漁夫、火夫、水夫、全員登場。拳をあげる。
舞台と観衆が一体となって、興奮のるつぼと化した。この興奮にその夜、なかなか眠れなかったのは、私だけではないと思う。
その夜を境に、下士官や古参兵の襟の階級章が消えていった。(入ソ当時は、旧軍隊の階級制度が厳として存在していたが、月日の経過とともに兵の階級章は外されていた。)作業の余暇や収容所の裸電灯のもとに、モスクワ外国図書出版所のプロレタリア文学を(日本語で××のない)活字に飢えていたこともあって、どん欲に読みふける兵士が多くなった。中でも多喜二の「蟹工船」「1928年3月15日」「不在地主」「工場細胞」「転形期の人々」が愛読されていた。
帰国後も、労働組合運動の合間を縫って、多喜二などのプロレタリア文学を読みあさるなかで、私を短歌の世界に誘った石川啄木の人生を追い、彼が初めて社会主義思想にふれた小樽、そこから多喜二の階級的成長に大きな影響を与えた小樽が私の聖地となっていた。
その小樽を97年9月の日本高齢者大会が札幌で開催された機会に訪れることができた。小樽駅近くの啄木の歌碑を訪ね、小樽商科大学への坂道を経て、旭展望台に登り、小樽の港を俯瞰する丘で多喜二の文学碑に対面した。
書物を見開きにしたユニークな造形、本郷新の制作で、蟹工船にちなんで左側に北洋漁業労働者の逞しい顔、頭上に北斗七星と北極星、裏面の年譜の最後に代表作「防雪林」以下、私の半生に大きな影響を与えてくれた数々の書名が刻み込まれていた。
3月8日の「3・15 4・16大弾圧記念のつどい」は、元ボクサーの赤井英和をして「プロレタリア文学というもんがあって、労働者のことを描くもんやと初めて知りました」と語らせた「蟹工船」をはじめ、多喜二の諸作を読み返し、シベリア抑留の初心にかえり、老躯を奮い立たせる「小林多喜二没後70周年、生誕100年」記念のつどいであった。
「老いの血も滾る(たぎる)集いぞ2月20日多喜二殺され70周年」 (U.T)