10月13日、反戦軍人阪口喜一郎顕彰碑バスツアーに参加しました。
狂気の天皇制軍国主義でぬりつぶされたあの時代に、政府やマスコミの宣伝に惑わされず、軍人でありながら戦争の本質を見抜いて反戦を貫き通すことはいかに困難で、しかも偉大なことであったか。
こんにち、風に吹かれるもみがらのように、ただマスコミのいうがままに流される大勢の人々の姿と較べて、彼、阪口喜一郎の生涯は、ひと際、輝いて見えました。
阪口喜一郎は、1902年(明治35年)大阪府泉北郡伯太村(現和泉市)に生まれ、1920年(大正9年)、18歳のとき、志願して呉海兵団に入団。24歳頃、2等機関兵曹(下士官)に昇進した。
彼は勉強家で、軍隊内でも常に読書に励み、進歩的な同僚の影響を受けて、次第に科学的社会主義に目が開け、遂に1931年(昭和6年)共産党に入党した。
1932年(昭和7年)、海軍内で数名の仲間と共に反戦新聞「聳ゆるマスト」を発行し、みずから創刊の辞を書き、その中心人物となった。発行部数は最初40部ほどだったが、次第に増えて100部を超えるようになった。 満州事変(昭和6年)、上海事変(昭和8年)頃の軍隊内で、ひそかに反戦新聞を発行し、読者の水兵たちにこっそり手渡すことは、いかに困難であったか。
後に検挙されて、1932年(昭和8年)広島の刑務所で虐殺された。そのいかなる拷問にも屈しなかった彼の精神力にはまったく脱帽しますが、それ以上に歴史を見通す知性と、真理に対する不動の確信にうたれました。
顕彰碑の横に立つ説明文の一句、一句には彼を称え、彼を惜しみ、彼の死を嘆く同志たちの心が脈打っているようでした。
彼の生命は、31歳の若さで凶暴な天皇制権力によって奪われたけれども、彼の志は永遠に受け継がれて、平和を愛する者たちの胸の中に生き続けるでしょう。 そんな偉大な魂の持ち主が、自分のすぐ身近にいたという今回の発見は、嬉しいことでした。 (H.H)