四、日本における戦争責任追及の弱さ
2 東京裁判の意義と問題点
東京裁判は満州事変いらいの日本の戦争を侵略戦争と断定し、その責任者を処罰しました。ここに東京裁判の最大の意義があります。さらに戦時中、日本国民には知らされていなかった南京大虐殺などの戦争犯罪の実態をあきらかにし、その責任を追及しました。「大本営発表」ばかり聞かされていた私たちは、この裁判によってはじめて日本がどんな戦争をしていたのか、その実態を知ることができたのです。
しかし東京裁判がなにからなにまで百点満点だということはできません。そこにはいくつかの問題点がありました。
その第一は天皇の戦争責任を問わなかったことです。連合国のなかには、天皇を戦犯として処罰せよとか、少なくとも退位させよというような意見がありました。しかしアメリカは戦争中から、日本の戦後処理には天皇を利用するのが最善という判断をもち、天皇の戦争責任は追及しないと決めていたのです。
最近、東条英機を賛美する映画『プライド』が上映されましたが、そのなかで東条が弁護人の清瀬一郎と激論をかわす場面があります。それは清瀬が東条にたいし、天皇の命令に背いて戦争をはじめたといってくれと頼むと、東条は激怒して「この私が一天万乗の君のご命令に背くなどということがあろうか! そんな嘘の証言をしては死んでも死にきれん!」と反論します。東条の気持はたしかにこういうものだったと思いますが、しかし、もし東条が天皇の命令に従って戦争をはじめたと証言してしまうと、戦争責任が天皇にまでおよぶことになります。アメリカ側も日本側も天皇の戦争責任は追及しないという合意ができていたので、清瀬弁護人が必死になって東条を説得したのでした。
第二に、南京虐殺などは東京裁判でとりあげられましたが、細菌戦の研究をし、一部実行にもうつした七三一部隊はとりあげられず、その隊長であった石井四郎は戦犯にはなりませんでした。これはアメリカ軍が七三一部隊の研究成果をひきつぐための取引であったといわれています。また日本軍による毒ガス兵器の開発やアヘン栽培などの国際法逢反行為も不問に付されました。現在でも中国には100トン以上の毒ガスが遺棄されていて、日本政府にたいしてその処分が要求されているのです。
第三に、日本軍将兵による強姦などの性犯罪は重視されましたが、最近問題となっている「慰安所」という制度そのものを「人道にたいする罪」としてとらえるという視点はありませんでした。
第四に、裁判全体が侵略戦争の責任を追及するためのものであったためかもしれませんが、台湾や朝鮮にたいする植民地支配の責任は追及されませんでした。
第五に、侵略戦争の責任追及もけっして十分とはいえませんでした。このことは東条ら七名が絞首刑になった翌日(一九四八年12月24日)、岸信介、児玉誉士夫らA級戦犯容疑者19名が釈放されたことに、はっきりとあらわれています。岸信介がのちに首相になったことは周知のとおりですが、A級戦犯として修身禁錮刑になった賀屋興宣は一九五八年に出所をゆるされて、のち池田内閣の法相となり、また禁錮七年の重光葵も一九五〇年に仮出所、のち鳩山内閣の外相となりました。こういう点を考えますと、アメリカは天皇だけでなく、一部の戦犯政治家をも利用するために戦争責任追及の手をゆるめたとみることができるでしょう。
最後に、東京裁判は勝者が敗者を裁くのではなく、国際法に照らしてその違反を罰するというスタイルをとったのですが、もしそうだとすれば連合国の側がおこなった戦争犯罪もまた裁かれるべきであったということになります。連合国側の戦争犯罪として大きいのは、やはりアメリカの原爆投下とソ連によるシベリア抑留でしょう。原爆投下は一般市民をも無差別に殺傷した非人道的行為ですから「人道にたいする罪」にあたりますし、シベリア抑留は日本軍を武装解除ののち家庭に返すとしたポツダム宣言に違反するものです。しかし連合国側の戦争犯罪はまったくとりあげられませんでした。東京裁判も結局は勝者による一方的な処分に終わってしまったのです。ただし、最近になって(一九八八年)、アメリカは戦時中に収容所へ強制収容した日系人に謝罪と補償をおこないました。カナダも同様の措置をとりましたが、戦勝国がこういう措置をとるのは珍しいことです。日本がいまだに個人には補償しないという立場を固執しているのにくらべると、このアメリカとカナダの措置は、日系人の粘りづよい運動の成果であるとはいえ、やはり日本政府に反省をせまるものといえましょう。