私の「12月8日」の朝
1941年12月8日午前7時=月曜の朝である。また、六日続く零下20度の凍土を歩む通勤にそなえて、暖かい朝食を腹にすべく寮の食堂に腰をかけた。ラジオの放送が突然「臨時ニュースを申しあげます、臨時ニュースを申しあげます」とくり返し、「大本営陸海軍部午前六時発表、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり」と二度重ねて放送した。「ラジオのスイッチは切らないでください」とむすんだ。
ざわついていた食堂内はシーンとなったが、
一瞬の間で寮生はいつものように、黙々と食器を配膳口に戻し職場に向かった。半年前の7月28日に南仏印(現ベトナム)へ日本軍の進攻で、米英相手の戦争は予期されていたことであり、戦えば必ず勝の信念に少しのゆるぎもなかったからである。
私は1940年3月、建国2600年の奉祝に沸く日本から、「八紘一宇」のスローガンに酔い、日本の生命線「満州」(現中国東北部)に五族協和の新国家建設の[捨て石]たらんと、満鉄の関連会社満州電業(電気事業の国策会社)に入社し、奉天(現瀋陽)鉄西区甘露街の誠明寮を生活の基盤とし、同社の経理部奉天用度課で発送電所建設資材の管理業務に従事していた。
こうして[大本営発表]による煽りによって、挙国一致のアジア制覇への暴走に、日本国民は狂奔させられたのである。戦果を誇大に発表したが、敗北はひた隠しにした。
「国民にウソの報告がなされた。ミッドウエー海戦(1942年6月5日)の『大本営発表』は最初のウソであった」(保坂正康著あの戦争は何だったのか 新潮新書 一一〇頁)
和歌山西支部 U・T雄