歴史の真実を知る ④
和歌山北支部 U・F代
NHKの朝ドラ『おひさま』の主人公陽子は生徒と共に墨で消した教科書を開いて茫然としている。私の八月一五日も黒い夏だった。生徒と植えた田の畔に一人で坐り稲の上を渡る風に淋しく太陽は光を失っていた。
知の巨人と言われる加藤周一の様に生きていて良かったという解放感は無かった。宮本百合子の『播州平野』の最初の一頁のような歴史の転換を感ずる認識も勿論無かった。
あの玉音放送を聞いた海辺の町の小学校の一七人の教師は、男性は校長、教頭、三席と農作業専任の四人、あとは未婚の女性と戦争未亡人の教師だった。校長は「一寸」と言って出て行ったが、近くの局へ電報を打ちに行ったのだ。長男が陸軍士官学校の生徒だった。電文は「シヌナ」であった。私の思いは皇居前の広場で一億総懺悔する若者の姿に似ていた。
私の父も村の小学校の校長であったが、戦局を心配する母に「戦勝を疑う者は神勅を疑う者だ」と答えたと言う。教師として父はそう言わざるを得なかったのだ。まさに天皇の軍隊の揺藍の役目を教育の場は果していたのだ。
私か師範学校に入学した年の一二月八日、天皇は米英に対し宣戦を布告した。その朝、廊下に並んでいたオルガンから練習曲だった英国国歌が一斉に消えた。英語は敵性語として日常語も禁止された。海軍のハワイ真珠湾攻撃の成果、陸軍のマレー半島、フィリピンヘの進撃は軍艦マーチに乗る放送となって国民を鼓舞した。学校はますます兵営となり寄宿舎に廻って来る千人針は増え、食糧事情は悪くなった。
一六歳の私の念いは、どうしたら生徒に、お国のために死ね、と言える教師になれるか、という事だった。仕事が遊びのような牧歌的な小学校時代は学校が生活の場であった。女学校には教科毎に専門の教師がいて知的な要求が刺激された。その要求をもっと拡げたくて撰んだのが師範学校だった。だが、其処には学問の匂いは微かだった。語ろうとした教師は招集され戦死した。二年生になり附属国民学校での教生実習が始ると其処は一挙手一投足が評価される競争の場だった。評判の教師に配属される教生に研究指定授業が当たった。研究とは集団でよい授業を創ることではなく、一人ひとりが授業の欠点を見つける事であり、それが評価の対象となった。そんな雰囲気に乗ろうとする自分に嫌悪感を持ちながら、評価を気にする自分に悩んだ。
私は入学以来自己肯定感を失っていた。それを取り戻す為には国家が要求する教師像に近づかねばならない。それは「お国の為に死ね」と言える教師だ。一七歳の私の稚い結論に「無償の行為」という言葉が或る日天啓のように閃いた。私は頭を上げ自分の言葉に自信を持ち教師の授業を批判し、皆が嫌う仕事をし、政府のプロパガンダのような大東亜共栄圏の理想を語った。 (つづく)
不屈和歌山県版 239号 (4) 2011.7.15発行